Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

横浜では今晩から雪模様か‥

2016年03月10日 22時16分02秒 | 天気と自然災害
 本日は気温が低かった。気象庁のデータによれば最高気温が8.7℃であった。
 区内の市立図書館に借りた本を返しに行き、いったん帰ってからさらに横浜駅までを往復した。合計約1万9千歩。1時間あたり7500歩ほどで歩いた。それなりに早く歩くことが出来た。腰の状態がまだ心配なので、そして寒かったので、ウォーキングスタイルではなく、通常の格好で歩いた
 少しずつ歩く速さを早くして風邪で長期間運動不足であった分を取り戻したい。腰の痛みは本日はまだ出ていない。あすの朝に痛みが出なければ明日は2万2千歩超えをめざしたいものである。

 横浜には警報や注意報は出ていないが、夜中から明け方にかけて雪がパラつくかもしれないらしい。積もることはなさそうである。しかし最高気温は8℃と本日よりも低いらしい。
 そして明日11日の夜から12日の朝にかけても雪のマークがついている。

 横浜では21時過ぎから極めて弱く細かな、しかしとても冷たい雨が降り始めている。

 本日の読書は「偏愛ルネサンス美術論」(ヤマザキマリ、集英社新書)。



東京大空襲から71年

2016年03月10日 20時09分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 本日は東京大空襲から71年目である。東京は1944年11月以来106回もの空襲に見舞われたが、10万人を超えるといわれる死者を出しているのが、1945年3月10日の空襲である。
 この戦争の原因を作った政治家・軍人の責任、そして無差別の都市爆撃という大量殺人を始めた人間の責任、さらに無差別殺人を実行した「戦勝国」の責任、すべての責任追及が曖昧の内に免罪されようとしている。日本軍も中国では都市爆撃を実施している。そしてこの戦争を始めた人間祀る施設に首相が参拝するなどという破廉恥がまかりとおる戦後70年の日本である。日中戦争、いやそれ以前からアジア侵略に邁進した歴史をキチンと克服しなくてはいけないと思う。
 そんな思いを込めて本日はモーツアルトの「レクイエム」を聴いている。実は昨日の夜まで3月10日ということを失念していた。昼を過ぎてから思い出した。迂闊であった。

      





ブラームス「ピアノ五重奏曲」(作品34)

2016年03月10日 12時08分16秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ショパンは一休み。
 本日はブラームスの若い頃の曲を聴きたくなった。この曲はブラームスが29歳になる1862年に「弦楽五重奏曲(Vn2,Va1,Vc2)」として作られたが、評判が芳しくなく放置されたものが原曲。1864年に「2台のピアノのためのソナタ」として書き換えられ、それを「ピアノ五重奏曲(Pf,Vn2,Va1,Vc1)」としたものである。
 第1楽章がヘ短調、第2楽章が変イ長調、第3楽章がハ短調→ハ長調、第4楽章がヘ短調という構成である。ブラームスらしいと私は感じるのだが、第2楽章を除き短調主体でしかもどちらかというと内省的なかつ悲劇的な性格が強いといわれるヘ短調、ハ短調である。内省的とか悲劇的といわれてもわかりにくいのだが、うまく他の表現の仕方がないのでここは勘弁してもらうしかない。
 とはいえブラームスの晩年の曲想に比べれば情熱的な要素が強い。第1楽章は華やかさを感じるとともに、どこか悲劇的な演劇の展開を予測させるような前奏曲にも聞こえる。出だしの部分を描写音楽とすれば、寒い低い曇が空を覆った薄暗い日を思い浮かべるといいかもしれない。ときたま日が当たる華やかさもあるが、日の当たらない人気のない、戦前の都会を低空で飛ぶ燕の視点も同時に思い浮かべる景色である。明るく華やかな情景がしかし最後まで解放されることのない景色が続く。ブラームスのもつ華やかさと抑制的な面が同時に存在している。五重奏という厚みのある響き、重層的な響きに惹かれる。
 第2楽章はしっとりとした味わいを感じる。じっくりと聴きたい曲である。低空の空の旅から室内に視点が転じて、少し温かみを感じるが、晴れやかな装飾は無い。火鉢の傍で静かに暖をとりながら中原中也でもめくってみたい気になる。
 第3楽章は不安をあおるような劇的な出だしである。スケルツォが激しい起伏の曲で、のびやかなトリオを中間部に持つと定義すればだいたいその線に沿った作りである。嵐の前の雲の激しい動きと、思いのほかの静かな一瞬を私はいつも思い出す。出だしの不安をあおるような小刻みな弦の刻みが大変印象的である。30代初めのブラームスの若い情念を感じるという評もある。「30代初めの情念」とは何かといわれると私もわからないが、自分の当時を振り返って、自身に対する苛立ちと将来に対する不安・不満が渦巻いていた自分を思い出すしかない。20代に感じる不安や傲慢や苛立ちともまた違うが、その違いを考え始めたら収拾がつかなくなりそうである。そんなことを考えているといつの間にか曲が終わっている。
 第4楽章は、うって変わって暗い出だしからはじまる。しかしこれが不思議な全体からは浮いた感じがする。アレグロ・ノン・トロッポの小刻みな音型に十二音階技法に基づく現代音楽やラテン音楽の要素に通じる「何か」を強く感じる。この「何か」は分析したことがないのでよくわからないが、聴くたびにそれを思いつく。どこか不思議な、それでいて幾度も聴きたくなるフィナーレである。