Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

休肝日&休養日&「奇想の系譜」(辻惟雄)

2016年03月24日 22時42分12秒 | 読書
 昨日は久しぶりにブログのアップが出来なかった。ひとり飲みがいけなかった。つい誘惑に負けた格好である。だいぶお酒を飲んだので、本日は休肝日&休養日。
 寒い日であったが、15時頃から日が照り始めた。そして最高気温は16時過ぎにようやく9.4℃を記録した。雲が切れなければ5℃台の気温に終始したと思われる。
 日が射したのを確認してから、横浜駅まで食材の買い物に付き合った。私一人で1時間ほど喫茶店で読書。

 本日から読み始めたのは、「奇想の系譜 又兵衛-国芳」(辻惟雄、ちくま学芸文庫)。岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳の6人を論じている。昨日読み終わったヤマザキマリのような大胆な表現ではないが、いわゆる解説書には無い視点が嬉しい。奇想と云われる作品の根拠に迫ろうという力を感じる。

ショパン「ピアノ協奏曲第2番」(エマニュエル・アックス)

2016年03月24日 20時40分55秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 ショパンのピアノ協奏曲はツィマーマンのものと、このアックスのもの2種類のCDを持っているが、ときどき聴いていたのはこちらのもの。1枚のCDに2曲とも入っているので、手間がかからない、という実に安易な理由からである。
 聴き慣れているのでこのCDを聴くと少しホッとする。ツィマーマンの方があるいは優れた演奏と云われるものかもしれないが、ちょっと息苦しいと感じた時は、演奏者には失礼だと思うがこちらの方が聴きやすいと思う。
 何処がどう聴きやすいのか、と問われると具体的に自信をもって答えられないのがもどかしいが、主旋律が浮かび上がってきているためかとは思う。


「偏愛ルネサンス美術論」(ヤマザキマリ、集英社新書)

2016年03月24日 15時39分54秒 | 読書


 著者は「テルマエ・ロマエ」の作者である。イタリアで美術史と油絵を学んだ経歴を持ち、実にユニークである。と同時にまさしく偏愛である。しかしその裏には好きでたまらないルネサンス美術と建築をじっくりと鑑賞・観察してきた裏付けを充分に感じることが出来る。
 私はこのようなユニークな視点と断定がとても好きである。型にはまっていない。しかも説得力がある。
 まずはフィリッポ・リッピから語り始めるあたり、「この人は本物だな」とまず思わせてくれる。私もリッピの「聖母子と二天使」はとても気に入っている作品である。類型的な聖母子像であった聖母に、高貴な女性を描いた作品が出現し始めたといわれた時期だと思うが、リッピは自分の30歳近い年下の妻をモデルとしたといわれている。当時としては生身のそれも身近な女性を聖母のモデルとしたというのはなかなか大胆である。多くの作品にこの女性が登場する。
 その次に登場するのがリッピの弟子と云われるボッティチェリ。なかなか憎い登場の仕方と思う。ヤマザキマリの鑑賞が油絵を描く学生として、模写を丹念に行った経験、そして漫画家としての視点で「ボッティチェリの絵には大きな特徴があります。それは「輪郭線を描く」ということです」「この輪郭線があることによって、二次元的表現ではあるけれど、背景にソフトに溶け込んでいたものまでが、くっきりと前に浮き出ているように見える。ボッティチェリの絵が現代の日本人にとって受け入れやすい理由の一つは、「漫画的な表現」だから」という断定もまた不思議と納得してしまう。
 ミケランジェロは「遊び心」がなく、ええお「偏屈」「変人」といわれながらも政治権力とうまく付き合えた人、レオナルド・ダ・ヴィンチは人間嫌いで、依頼主からクレームにも頓着しない、流行に合わせる気もない「我が道」を行く人、ラファエロは「気遣い」の人だが、「どこか如才なさも持ち合わせ」た「偉大な中庸」を貫いた人、ということになる。
 最後の章の作者独自の「ルネサンス」論もまた楽しい断定の、心地よい論である。
 「宗教から完全に自由ではない西洋人より、宗教概念が希薄な日本人の方が、精神的に自由だといえない」、「だれもが既成の考え方に流され、「長いものに巻かれる」風潮は日本の方が顕著」、「今の日本に一番欠けているのは、ルネサンスを育んだ懐疑的な精神」、「(国や郷土という)場所に対する排他的な執着心や、変化というものを嫌う鎖国的な日本の精神性を好意的に捉えることが出来ない」‥。
 私が普段思うことと同質であることがかかれているとともに、肝に銘じておこうと思うことも指摘してある。なかなか面白く読ませてもらった。

      

久しぶりに「一人飲み」

2016年03月24日 02時30分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は夕方からひとり飲みをした。最近は一人で飲みに行くことはほとんどない。現役の頃は21時過ぎに会議が終わってから、フラッと店じまい直前の居酒屋に入って、生ビール1杯と焼酎のお湯割り1杯、冷奴か枝豆、マグロのブツか烏賊の刺身、これらの内から2品位を注文し、1時間くらいで切り上げてから帰宅した。
 退職直後は、午前中10時過ぎから営業している居酒屋があり、昼前に生ビールを飲みに入ったことがある。週に1回くらい通った。しかし4回ほど通った時に、昼間から赤い顔をして繁華街を歩くことに気恥しさをおぼえ、これは止めた。また昼間から居酒屋で大声でたむろしている周囲に違和感を覚えた。
 むろん朝になって仕事を終えた勤め人も何組かはいた。また土・日に仕事をしていた人々が平日の午前中に息抜きをしているのもいる。若い彼らのつつましいデートの場面にも出くわした。これらの人々はすぐに雰囲気でわかる。特に違和感は感じなかった。勤務時間が多様化した今は、そのような人々のための居酒屋の存在は貴重なものかもしれないと感じた。しかし大半は退職後に時間を持て余した私のような人々、子どもを送り迎えの合間の主婦のグループなどで、違和感を持ったことも事実である。
 そんな体験から最近は一人で居酒屋に入ることは極端に減っている。むろん安く切り上げるのは得意だが、それでも年金生活なので金銭的にもったいないと感じる。

 昨晩は、新書1冊を読みながら、生ビール1杯と焼酎1合とツマミ一品で1500円少々で終了した。しかし25度とはいえ久しぶりに焼酎1合は効いた。1時間ほどで切りあげたものの、帰宅後すぐに寝てしまった。
 日付が変わってから起き出して温い風呂に入り、ようやく目が覚めた気がする。当分は一人飲みは遠慮しておこう。また本日は休肝日としたい。