Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「甲を着た古墳人が見つかった金井東裏遺跡の調査とその意義」(右島和夫氏)

2016年03月15日 23時35分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は実に6日ぶりの青空だったということである。陽射しは暖かだったが、強風注意報の出ていた風は冷たく感じた。夏用の薄いブレザーに薄い化繊のサマーセーターで出かけようとしたら風が冷たくて慌てて家に戻って、ダウンのコートに着替えて再度外出をした。



 本日の講座は「甲を着た古墳人が見つかった家内東裏遺跡の調査とその意義」という題で、群馬県埋蔵文化財調査事業団理事の右島和夫氏。
 五世紀後半から六世紀にかけての北関東の情勢、榛名山の噴火、東山道の成立、馬の飼育に関する大阪から飯田そして群馬にかけての遺跡の分布から当時の社会、首長層の在りようを語ってもらった。
 甲を着た古墳人の来ていた甲冑、装身具などから朝鮮半島からの渡来人の可能性の強いことなど大変示唆に富み、興味深い公演であったと思う。

 帰りに「屋須弘平展」を時間をかけて見てから帰宅したため、夕食間際の帰宅となった。本当はせめて桜木町あたりから歩いてみたかったが、時間もないので断念。あすはもっと暖かくなるようなので、ウォーキングに出かけたいものである。

再訪「屋須弘平-グアテマラ140年のロマン-」

2016年03月15日 21時23分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 本日アースプラザで屋須弘平展を再度見てきた。パネルに屋須弘平の年譜と解説をわかりやすく、詳しく記載してあったので、パンフレットが無いということならばパネルの写真撮影を認めてもらいたかった。しかしそれもダメだという。代わりに年譜がおいてあるというのだが、ここに掲げた程度のものでしかない。
 せっかく屋須弘平という知られざる写真家のことを勉強するにも、あのパネルを全部筆写するか暗記して帰れ、というのはあまりにひどい企画展ではないだろうか。
 作品については著作権のこともあろうし、粗悪な複製画が出回ってまずいこともあるだろう。しかし解説までもダメというのは私には納得のできない措置だと思われる。再検討してもらいたい。
 それなりにいい出来だと思われたパネル展示を見ながら、限られた時間の中での鑑賞なのだから、せめてこの解説のコピー位は配布してもらいたいかったのだが、残念である。
 記憶に残ったものをうろ覚えながら記載してみる。もしも違っていても、私の記憶力の無いのが原因ということになるのだろうか。

 まず、屋須弘平は仙台藩という幕府の方針に沿って幕末を迎えた藩に育って、蘭学を収めて医者になり、幕府軍の軍医として戊辰戦争に加わっている。一方で尊王攘夷派の薩長等の志士たちが貪欲に欧米列強のことを吸収しようとしている様をみて、フランス語・スペイン語などを習得したようである。そして金星の太陽面通過のメキシコの観測隊の通訳として横浜の野毛で観測に従事し、天文学の習得を志したらしい。
 メキシコにわたり天文学の勉強を始めたものの、メキシコの政変を受け寄宿していた先の人間がグアテマラに転出、それにしたがってグアテマラに移り、写真術を学ぶ。帰国のための資金稼ぎのためであったらしいが、私の記憶は曖昧である。
 1880年に写真館をグアテマラ・シティで開業し、1883年37歳の時に洗礼を受けている。洗礼名はファン・ホセ・ヘスス・デ・ヤスとなり、敬けんなカトリック信者として、グアテマラ国民として生涯を終えている。
 いったんは写真館を閉めて日本に帰国し、母親を東京の築地に住まわせたようだが、高橋是清に壊れてペルーの銀山開発計画に通訳も兼ねて加わるが、すでに廃坑となった銀山を買わされていたことがわかり、計画はとん挫、従業員の帰国等に奔走している。
 屋須弘平はこの高橋是清の依頼を受けたのだが、その杜撰だった山師的な計画に大きく絶望したようだ。日本の指導者に対する絶望が大きかった、というようなパネルの表示がされていた。ここら辺もキチンとその解説の表現を再現したいのだが、それが許されない。
 私は屋須弘平が事業の後処理でもっとも大切な従業員の帰国処理をキチンとした後に自身の帰国をはかろうとしたことに、注目した。屋須弘平という人間にとても興味を抱いた。この時の屋須弘平の心境や、客観的な記録が欲しいものである。
 そして屋須弘平は日本の地には戻ることなく、1891年45歳の時にグアテマラ・シティで写真館を開業し、マリア・ノリエガと結婚し、アンティグアという都市に写真館を移転して生涯をそこで過ごし、1917年71歳で生涯を閉じている。日本に戻ることをしなかった屋須弘平の心の内もまた知りたいものである。
 屋須弘平の写真について飯沢耕太郎が、簡潔に評を加えたパネルもあっが、それには「移された建物の構造までもがわかり、作品の構図も優れている」というような趣旨だったと思う。引用が違っていたらそれもまた私の記憶が情けないということにされるのだろうか。
 羽幹昌弘という写真家が屋須弘平の都市を移した作品と同じ構図でカラー写真を撮影し並べている展示があった。素敵な試みであったと思う。モノクロとカラー、屋須弘平の時代と現代のカメラの性能の違い、レンズの違いなどはあるが、その違いを超えて作品はインパクトがある。中米の背景の山と都市の建物の風景の対比が特徴の作品はとても魅力的である。両方並べてあることによってさらに作品の魅力が浮かび上がっているように感じた。
 飯沢耕太郎氏の講演会が3月6日に終わってしまっていることもまたとても残念であった。これに参加したら、何らかの資料が紹介されるなり、販売されたのであろうか。そんな情報すら会場には示されていない。
 くどいようだが、これでは屋須弘平という先人の業績や作品を広めることにはならないということを再度記しておきたい。

ショパン「ピアノソナタ第2番」(アシュケナージ)

2016年03月15日 11時51分35秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ショパン(1810~1849)のピアノソナタ第1番は習作に近くあまり演奏されることはないが、この第2番は代表作ともいわれる。ショパン29歳、1839年の作であるが、第3楽章の葬送行進曲は1837年には完成していたらしい。ジョルジュ・サンドとの生活の始まりと1830年のポーランドの失敗した独立運動11月蜂起が作品の背景にはあると云われる。
 第1楽章は荘重な和音の連続で始まり、すぐに最初の主題が出てくる。このつながりというか変化が私のお気に入りである。穏やかなメロディーが浮かび上がるようでいて和音の中にすぐに隠れてしまうような進行も、聴く人間に次の展開への期待を先へ先へとひっぱっていく効果がある。しかしこの期待も結局ははぐらかされるように細かい和音の連弾の中に埋もれていく。人はこれを焦燥感の発露、あるいはポーランドの独立の夢が破れたことと結びつけて解釈しようとする。その妥当性については私は何とも言えない。しかし焦燥感というか何か解決できないままいつの間にか楽章が終わりを迎えるという曲の莫れに聴く人を引きづり込んでいくことは確かである。
 第2楽章の出だしは第1楽章の気分をそのまま引きづるように、あるいはさらに輪をかけて浮かび上がり切れない舞曲のようなテーマを心の中で再度反芻しようとする衝動すら湧いてくる。トリオに至ってそれは忘れて、美しいメロディーに初めて身を委ねることが出来る。再現部のあと再びこの部分がわずかに繰り返されるところが展開の上では心憎い演出である。
 第3楽章はあまりに有名な曲であり、独立して惹かれることも多い。故郷喪失という思いの強いショパンらしいと云われる。失敗に終わった11月蜂起への挽歌とも言われる。そういう背景は気にしても「葬送」の曲として多くの人の心に寄り添う力を持っていると思う。
 ここでもトリオの部分の美しいメロディーはモーツアルトのレクイエムのラクリモーザに匹敵するように美しい。この後に重苦しいテーマが繰り返されるとこのテーマが明るく浄化されるように聴こえる。
 第4楽章は何とも言えず不思議な曲である。葬送行進曲の後に跳ね回るようなブレストは寂寥感や葬送の後の鎮魂とは雰囲気が違う。第2楽章の出だしの重苦しい気分が戻ってくる。葬送の時に天上の音楽だけでは決して癒しとはならず、慰めともならずに意識の底に残る無念の感情の発露に思える。