Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

休肝日&休養日だったが‥

2016年10月19日 22時27分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は休肝日&休養日。休養日とはいっても退職者会のホームページに3本の記事をアップした。このブログの記事を2つアップ。パソコンの前に座りっぱなしとなった。図書館から借りてきた「わが心の歌-望郷のバラード」の返却日は11月1日。まだ余裕があるが、早いところ読んでしまいたいと思っている。本日は読む時間がなかった。これから30分ほどの読書タイムを確保した。
 他にも読みかけの本が多数ある。早く読んでしまいたいと、結構焦ってはいるが、焦ってもどうにもならない。全部読まなくともつまみ食いでよいのだが、性格的にそれができない。

 明日は晴れ、最高気温の予報は26℃だが、これよりも高くなる可能性もあるようだ。明日は午後から出かける。「月」展と久しぶりに三菱一号館美術館に行く予定。内覧会に応募したら当たった。「拝啓 ルノワール先生― 梅原龍三郎に息づく師の教え」展である。
 「月」展は券をもらった。三菱一号館美術館は内覧会ということで、ともに入場料はかからない。ルノワール、梅原龍三郎はともに私は敬遠している。食わず嫌いは良くないと、意を決して参加申し込みをした。私の頭からはいつもすっぽりと抜け落ちてしまう。見直すいい機会になればうれしい。せめてどうして敬遠してしまうのか、その理由がわかればいいのだが‥。


「鈴木其一展」後期展示(その2)

2016年10月19日 17時02分08秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 鶏の作品というと今は若冲がまず思い浮かべられる。私も同じである。やはり若冲の鶏の作品をはじめて見た時の驚きは忘れられない。若冲は鶏をじっくりと見て、写生したといわれている。
 しかしその描かれた姿態は決して日ごろ鶏が見せるポーズとは違う。歌舞伎の訳者のように大向こうを張ったような、「どうだ」と云わんばかりのポーズである。芝居がかっていて、そして自己顕示欲十分な性格だったのだろうか?伝記や解説からはそのような性格は伝わってこないので、よくわからない。
 若冲の鶏は好きであっても長時間眺め続けたり、見る回数や時間によっては、疲れてしまう。一度見るとしばらくは作品から離れて他の作品を見たくなる。若冲でいえば水墨画が見たくなる。あるいは広重などでいえば東海道五十三次などの作品に気持ちが向かってしまう。
 しかし其一のこの「鶏に菊図」は、若冲を念頭に置いているように見受けられるけれども、1mを大きく超える画面の割には、控え目な印象で、若冲ほどのアクの強さは感じられない。同じ赤系統の色も控え目である。鶏よりも番の鶏を取り巻く白い菊のアーチの方が主役である。雄鶏の腹から尾羽まで、雌鶏の尾羽の濃い緑も印象深いが、赤も茶もくすんでおり、わずかに深い青い色がアクセントとなっている以外は、鳥全体として大人しいし、時間が停まっている。顔も若冲ほど個性的な顔をしていない。
 どちらかというと私が鶏を見てホッとするのはこちらの作品だとおもう。あまり動きは感じられず、其一にしては地味な配色である。しかし白にしろ、たらし込みを使った葉にしろ、羽の色にしろ、微妙な色のグラデーションは念入りに仕上げられている。部屋に飾って普段見ている分にはこちらの方が落ちつくのは間違いがない。
 解説では大名・豪商に注文作品らしいという。控え目な構図と配色は注文主の意向だった可能性はある。

   

 次は「瀧上白衣観音像」。私が着目したのは観音よりも観音が乗っている龍。前期展示の時に昇龍図を取り上げたが、その時に直立して躍動感があって、いかめしい緊張した顔つきの龍に惹かれたが。今回は観音の読書に支障がないようにおとなしく乗り物の役に徹している龍に親近感を持ってしまった。乗っている観音が揺れないように気を使って運転しているドライバーのようでもある。そしてそんな対比が、どこかホッとする作品である。色彩と構図の緊張感あふれる会場にあって、どちらかというと後期展示の仏画のコーナーはホッとする空間であった。
 同時に同じ水墨画である「昇龍図」と「瀧上白衣観音象」とを比べると、今回の「瀧上白衣観音像」は静的な情景である。「昇龍図」は天に昇る躍動感あふれる作品。違う種類の緊張感や動きを描く力というものに驚いている。
 そして両者の雲の様子が、風神雷神図屏風とも大きく異なっていることにも気がついた。昇龍図の雲はその形から龍の影でもあるらしく、どこかおどろおどろしい。



 なお、前期展示作品の「虚空蔵菩薩像」も忘れられない作品であった。こちらの作品は作品の背景の噎せ返るような青、そして菩薩の頃もは赤と緑。このような色彩の氾濫に付随する緊張感にびっくりした。隣にあった「釈迦三尊十六善神像」も善神が所狭しと密集していたが、それ以上の緊張感があった。
 静かな祈りの空間を演出するというよりも、人を威圧するような空間をもたらすような配色である。現在ファインバーグコレクションとなっており、解説を読んでもどのような依頼で作成したかわからない。このような威圧するような効果を生んでいる色彩、その目的は何だったのだろうか。虚空蔵菩薩はこのような色合いで荘厳される菩薩なのだろうか。虚空蔵菩薩は「虚空のごとく無量の智慧や功徳を蔵する菩薩」(岩波仏教辞典)と云われる。
 そのような虚空蔵菩薩の在り方とは別に、其一という人は、現代の言葉を使えば色彩の心理学的な効果ということについて、自覚的だったのではないか、と思った。

間宮芳生「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」(by天満敦子)

2016年10月19日 12時54分33秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 朝から天満敦子の演奏で、間宮芳生「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」を聴いている。3楽章の曲で全体としては21分30秒に満たないきょくであるが、ヴァイオリンの様々な音色・技法がぎゅっと詰まっている感じの曲である。
 第1楽章の出だしはガチャガチャッとして最初は少し違和感を持つ。私は最初に聞いた時これはちょっと趣味ではない、とすぐに聴くのを止めてしまった。その後「我慢」して聴いて面白いと感じた。
 間宮芳生自身の解説がCDの解説冊子に収録されている。それによると第2楽章伊豆諸島青ヶ島の死者を蘇生させる歌「ディラポン」に由来するとのことである。私には地下から発せられるうめき声のように聞こえた。うめき声がメロディーに昇華しようとして昇華しきれないもどかしさが最初の出だしから感じられる。私はこの第2楽章が最初に気に入った。
 第3楽章は第2楽章との差を感じない。続きのようにいつも聴いている。確かに音は細分化され、テンポも速くなっているが、聴き取る世界は同一のようだ。最後に方で作者のいう「鳥の声」といわれるとちょっと戸惑うが、高音の音型はとても印象的である。
 スラブの情念を追い求めるような天満敦子のヴァイオリンの音色と、間宮芳生の曲との共通性は何なのかと問われると答えることは到底できない。しかし私の気持ちに入り込んだことは確かである。