
本日は気温が正午前に31.1℃と横浜の十月の観測史上最高気温となったという。
この暑いさ中、11時過ぎに家を出て横浜駅まで歩いたのち、東横線で日吉駅まで乗車。そこから矢上川を遡行して野川の分岐まで歩いた。ここにあるファミレスで一服したのち今度は中原街道を横浜方面に戻り市営地下鉄グリーンラインの東山田駅まで歩いた。この間は1万3千歩で約7.8キロ。自宅を出てから自宅までに歩いた歩数は2万4千歩で約14.4キロ。
妻にはそれなりにこたえたようだ。もっとも妻は横浜駅には寄らなかったため私よりは7千歩は少ない。
矢上川沿いの道は、堤防もなく護岸沿いの道ばかりで自然はない。しかし底張りをした川にもかかわらず20センチほどの深さの水はそれなりに透明で、鯉が多数泳ぎ、鴨も多数群れていた。アオサギを数羽見た。道の周囲は畑もなく、照り返しで暑かった。
道沿いは住宅ばかりで商店はなく、途中で一服する場所もない。歩くことが好きな人向けである。
行政上は、横浜市港北区-川崎市中原区-同高津区-同宮前区-横浜市都筑区と5行政区を歩いたことになる。横浜市と川崎市の市境となる井田丘陵の北辺の東側と西側を歩いたことになる。


30日(金)に平塚市美術館で「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治」展を見てきた。副題は「洋画・日本画・写真。それそれ゛の表現に込められた、三つのまなざし」と記されている。
平塚市美術館の開館25 周年を記念し、香月泰男と丸木位里・俊、川田喜久治の展覧会を開催いたします。
香月泰男(1911 ~ 1974) は山口県生まれの洋画家です。国画会同人としての活躍をへて応召、終戦後シベリアに抑留された経験をもとにした< シベリアシリーズ> に独自の画風を築きました。
丸木位里(1901 ~ 1995) に広島県に生まれ、青龍社展初入選後、美術文化協会に参加。1939 年に赤松俊子(1912 ~ 2000) と結婚し、妻とともに広島原爆投下の惨状を取材し、ライフワークとなった< 原爆の図> を制作しました。
川田喜久治(1933 ~ ) は茨城県土浦市に生まれ、高校時代から写真を撮り始め、土門拳が選者であった『カメラ』に応募、入賞ののち新潮社でグラビアやポートレート撮影担当をへて、フリーランスとして写真エージェンシー「VIVO」を結成。心理的、象徴的な喚起力を重視した表現による「地図」連作を発表。写真を通して「戦争」や「人間」を探り出していく試みが高く評価され、世界的な写真家として活躍しています。
洋画、日本画、写真という異なる手法によりながら、三様の戦争に対するまなざしがそれぞれに傑出した表現によって表されています。
神奈川県内では香月泰男の本格的な展示は22年ぶりであり、丸木位里・俊「原爆の図」は、2013 年開催の「戦争/美術1940-1950」( 神奈川県立近代美術館 葉山) に数点展示されたのみです。川田喜久治は東京都写真美術館(2004 年「世界劇場」)、東京国立近代美術館(2009 年「ラスト・コスモロジー」) をへて神奈川県内では初の本格的な紹介となります。
偉大な芸術家の、それぞれの眼が捉え、生みだした作品は、私たちに深い感動と洞察の時をもたらせてくれることと確信しています。
香月泰男の画風と丸木夫妻のリアリズム絵画、また川田喜久治の写真技法に共通点はないが、戦後の出発点ともいうべき、原爆(空襲)体験、シベリア抑留体験に目を背けず、忘却せず、風化させず、向き合い続けた真摯さは共通している。

香月泰男のシベリアシリーズは全体を見たのは確か2度目だと思う。1995年没後20年の回顧展で全体を見た時の言い知れぬ感動は今でも忘れられない。それまでいくつかの作品は美術雑誌や解説本で見ていたが、全体を見たのはこの時が初めてだった。
今回特に印象に残ったのが、亡くなった1974年の作である「月の出」と「日の出」。特に「月の出」が印象に残った。
香月泰男自身の言葉が記されている。
「月と太陽のありがたさを、私は満州に征き、シベリヤにつれて行かれて知った。この太陽は、月は今しがた下関の家族等が仰ぎ眺めたであろうものかと、たまらなくありがたく、なつかしく拝されたものである。兵にとって、戦争とは郷愁との戦いでもあるのだ。」
この感慨の裏にはまもなく帰還することへの感動と共に、抑留中に亡くなったもの、あるいは体験せざるを得なかった集団内の人間模様や国家や軍隊のありようなどすべてを飲み込んでいる。月の光は燐光のように鎮まっている。暖かみを感じるときと、感じないときと、図録を見るときどきによって受け取り方に差がある。今回は暖かみを感じなかった。反対に対になっている作品の太陽は異様に赤い。抑留体験、戦争体験、集団の在りようのプラスとマイナスを見つめてきた作者にはこの月に内向的なベクトルを託したのか、と思ってしまう。

丸木位里・俊の「原爆の図」15部のうち、今回は第1「幽霊」、3「水」、4「虹」、5「少年少女」、7「竹やぶ」、8「救出」の6作品が展示されていた。「原爆の図」の作品を見たのは初めてである。解説などで部分を見たことは幾度もあるが、実際には初めて目にした。
川田喜久治という写真家の名は初めて聞くような気がするが、作品はいくつかは見た記憶がある。東京都写真美術館のショップで写真集をめくった可能性がある。今回の展示の中心は<地図>(1965)である。原爆ドームを内部から壁のシミや落書きを執拗に撮影し、そこに忘却されようとしている原爆体験、戦争体験の痕跡を見出そうとしているようにも思えた。特攻・原爆などの体験と戦後のアメリカ占領下の体験とが不思議な地続きとしてとらえられている、と感じた。
館長の言葉が展示会場の始めに掲げられていた。なかなか意欲的な企画を続けてこられたようだが、残念なのはその最初のメッセージが印刷物として配布されていない。HPにも掲載されていない。メモを取っておけばよかった。
惜しむらくは「原爆の図」がガラスケースで覆われていた。それはやむを得ないと思うが、照明が目に入り、とても見づらい。ひとつ作品を見るのに移動しながら、下から見上げたりさまざまに工夫をしながら見た。全体を見渡すことは不可能である。これは会期中にでも改善してもらわないと困る。
