Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

欲の深さ・・・

2016年10月29日 22時41分22秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜では雨が降り始め、一時は本降りとなった。一応今は降ってはいない。明日の天気予報は曇。最高気温が15℃となっており、本日よりも5℃も低い。長袖1枚では寒い。
 明日は予定は無いが、出歩くほどには裕福ではないので、一日家でくすぶっていなくてはいけないらしい。読書三昧となるか、ただ寝ているだけの日になるか、あるいは鈴木其一の感想をまとめられるか‥‥。
 見に行きたい美術展はいくつもある。読みたい本は膨大にある。歩きたい個所も数知れずある。
 人は欲張ってはいけないという。しかし貪欲さを一概には否定できない。人は自分の尺度に合わせて他人の欲深さを評価する。残念ながらいつも基準は「自分」である。時間とお金が足枷になる。時間とお金におおきく関与しているのが家族である。人間の振舞いにブレーキをかけるのもアクセルをふかすのも家族である。家族の意向を無視しては欲も貪欲もない。自分と家族の関係の中でもがき続けるのが、人生なのだろう。
 家族という関与がなくなったら、私は糸の切れた凧のようにどことも知らずに飛んで行ってしまうことは確実だ。
 だんだん自分が情けなくなるので、本日はこの辺で就寝としよう。

本日からの講座「日本ナショナリズムの解剖学その1」

2016年10月29日 13時11分43秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日からはじまる講座は「日本ナショナリズムの解剖学 その1」(講師:橘川俊忠神奈川大学名誉教授)
 不勉強ながら講師の橘川俊忠氏の著作は読んだことがない。
 最近の氏の著述は以下に掲載されている。
「戦争を論じない戦後論の陥穿-「長い戦後」が提起する問題についての考察」
→【http://gendainoriron.jp/vol.07/feature/f01.php
 なかなか示唆に富むと思える。期待している。


バッハ「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」

2016年10月29日 11時02分52秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 このCDは何時頃購入したのか記憶にないが、かなり昔だとおもう。まだCDが主流になる前だとおもう。ヘンリク・シェリング(1918~1988)もヘルムート・ヴァルヒャ(1907~1991)もともにまだ存命の頃だと思う。シェリングは古典的な作品の演奏で評価が高かったといわれている。そしてヴァルヒャはバッハのオルガン作品全集を二度も行っており、バッハのオルガン演奏で有名であった。私などの世代の人間には神様のように云われていた。
 この「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」の録音は1969年。

 この演奏を聴いて最初の曲のヴァイオリンのふたつの弦を同時に弾く重音の美しさ、豊かな音量と確かな音程に驚く。そしてそれは当然のように全曲で味わうことが出来る。重音から単音への移行、その逆もごく自然に音色が変わっていく。弦に弓の全面が吸い付くように演奏されているのであろう。力は感じられないが、響きは豊かである。先日取り上げた天満敦子の力のこもった響きとは対極にあるのかもしれない。
 楽器は、1743年製グァルネリということである。
 オルガンやチェンバロの楽器のことや、奏法のことはまったくわからない。ヴァルヒャについてウイキペディアを調べてみたら、次のような「語録」が紹介されていた。そういえばどこかで聞いたこのあることばである。ヴァルヒャの言であったかと再認識した。
「バッハの音楽は宇宙へと目を開いてくれます。ひとたびバッハ体験をすれば、この世の生にはなにがしかの意味があることに気づきます」。

 私の好みは第2番の第1楽章と第3楽章。切れ目のない旋律を切れ目なく弾ききるボウイングは右手首の柔軟さとタイミング。上げ弓から下げ弓に変わる時、逆も同じだが、どうしても弓をとおして弦にかかる力に差が出てしまう。それが感じられない。ごく初歩的ともいえる演奏技能だが、だからこそ人に悟られないように弾くのはとても難しい。重音の演奏もしかり、そのような所で破たんを見せないということは確かに名人芸であると思われる。