Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日は忘年会

2021年12月22日 22時00分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 忘年会よりつい先ほど帰宅。楽しい時間を過ごすことが出来た。もつ煮込みがとても美味しい店である。その他の肴もとても美味しい。その上に高くないというよりも安いくらいである。

 歳をとると、慣れしたしんだ店が嬉しいということを聞く。私はまだそのような店を知らないが、本日の店はその候補になれる店だと思う。店のオーナーとは気さくに話が出来て、その上でしつこく話しかけてこない。静かに飲みたいときは声をかけてほしくないが、そんなわがままも察してくれるよわうな気がする。

 本日中に「万葉読本Ⅰ 万葉の時代と風土」(中西進)を読み終えたいと思っていた。残るは「万葉にあらわれた女とくらし」という20頁に満たない論考。しかしリュックが重かったので、文庫本をリュックに入れた。
 「世紀末美術」(高階秀爾、ちくま学芸文庫)。「万葉の時代と風土」は明日、午前中に我が家で読み終わりたい。

 


「万葉の時代と風土」Ⅲから

2021年12月22日 14時04分12秒 | 読書

   

萩原朔太郎の最初の詩集「月に吠える」は、短歌という伝統的な詩からは遠く距った、あまりにも新鮮な感覚において、従来の詩からの飛躍的な展開を示すものだった‥。にもかかわらず、彼は晩年きわめて伝統感覚をもった詩を作り、‥古典和歌への関心を示し、‥蕪村への親灸を見せる‥。朔太郎という近代の詩人の中に、古典和歌や俳諧という伝統的な抒情はどう位置していたのか。‥ひとり朔太郎にとどまらず、近代詩の作者にける伝統とのかかわりとして、もっとも基層的な問題となるはずである。伝統詩千年の歴史の中で、大ていの試練なら超克してきたはずである。そこに一方の西洋文化を迎え入れたとしても、何ほどのこともないと、まずは思えるだろう。それでいて近代詩という新しい形式、それにともなう用語の変革が、何物かをかえていくだろうことも、想像にかたくない。朔太郎と古典和歌との関係はまことに興味ある問題を、かなり普遍的な形で提出してくれるであろう。」(「月の詩心」一)

朔太郎とまったく同じ意味において、漂泊の魂をもっていたのが大伴家持であったと思う。‥朔太郎はわが身がくらげの如く透明になり、つめたいものが体内に流れながら、なお魂の凍結、わが身の陥没を覚えた。家持もまた、月がいたずらにさやかだったのではない。」(「月の詩心」三)

琉歌が万葉集と類似していることは、しばしば目につく。琉歌の成立はずっと後だが、ともに〈古代歌謡〉にぞくするからである。すると、これらの歌にみられる古代的発想とは、人間の心をしかに自然と重ねることであった。‥古代人の心は自然の草木と重なり合い、渾然とと融和しあうものであった。ことに花々は、古代人の心の〈象(かたち)〉そのものとして存在した。
あの中国最古の詩集たる「詩経」におさめられた詩、おそらく紀元前十世紀ごろからのものであろうと思われる市が、七、八世紀の万葉集と一致して、そんな心の〈象〉を示すこともある。‥古代人たちは花々を人間の無縁の生き物とはみていなかつた。植物の葉を髪に挿すことは、その生命をわが身に付着させることでもあったように、花々はじかに人間のいのちとひびき合うものであり、心の通い合うものであった。」(「はなと古代人」)

 この指摘は白川静の万葉集の論考との響き合いを思い浮かべた。古代歌謡という共通点で詩経などとの比較を行っている魅力的な論であった。

「なぜ高市黒人は舟の行先にばかり心がとらわれたのだろう。彼の心もまた、小舟同様に揺れ動いてやまなかったからである。黒人はは去っていくものしか歌わない。彼の心は確かに輝くもの、安定したものを見ることが出来ないのである。たゆたい揺れる心が彼の旅情であった。‥実際的にどうも大きくとも、海において舟が舟が小さかったとを示している。‥輝く美しき海は、そのとき無限の恐さに変る。海の賛美は海の畏怖と郷里であって、いつも舟を小さくし、たゆふう命の姿と見せたようである。」(「万葉時代の舟の歌」)