Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

横浜美術館「賛美小舎」-上田コレクション展

2013年04月21日 23時01分53秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 先ほど横浜美術館におもむいたおり、コレクション展も見てきた。6月16日までの会期で『「賛美小舎」-上田コレクション展』。
 若手美術家の可能性を支援しようと夫婦で集めた45作家360点以上の作品が10の公立美術館に寄付されたらしいが、横浜美術館は最多の175点を収蔵しているとのこと。今回は36作家146作品が展示されている。
 説明書きにあった「日本文化(民族)の根底には賛美の心がある」と日本だけに限定しているがそれはまずいんではないの、とちょっと腰が引けてしまったり、列島の文化は単一民族ではないんだよ、と一言いいたくなるが、いい作品があればそれはそれで素直に鑑賞しようと思う。



 私には理解できない作品も多くあった。またなかなかとまどったものもあった。今回特に心に残ったのは、川崎麻児(かわさきあさこ、1959年生まれ)という作家。上田コレクションの解説にもあるとおり、このコレクションの契機となった作家らしいが、「沈思黙考」という言葉がぴったりの作風だ。じっくりと静かに心を落ち着けて鑑賞できる数少ない現代アートという感じた。この「沈思黙考」は私のいつも心に座らせている言葉でもあるので余計に気になった。

   

 掲げた作品は「静かの海」という作品。静かな海ということなのか、月面の「静かの海」からながめた地球なのか判然としない。月と思われる天体の周りのもやもやが雲だと解釈して、私は前者と思った。波の描写に心惹かれた。静かに何かを考えさせる内省的な絵だと思う。月の光と思しき光の柔らかさと、それが波に反射する様子がとても静謐だ。現代美術のどちらかというと精神を気ぜわしく刺激する傾向とはまったく正反対の指向を好ましく感じた。
 この他に「赤い月」という作品も撮影したかったが、ガラスの額物に入っていて室内灯が反射し撮影者の姿が入ってしまうので撮影は断念した。他に「砂の海」も同様に断念した。この3作品、とても気に入った。
 その他に名作再訪という名のシリーズは井伏鱒二「黒い雨」、堀辰雄「風立ちぬ」、壺井栄「二十四の瞳」、田宮虎彦「足摺岬」など10人の作家の作品の東京新聞の挿絵原画などがあった。しかしこれはちょっと通俗的過ぎるような、一般受けする心象に流されてしまっているように感じた。しかし画面はとても静かで落ち着いている。

 他には石原友明・武田州左(たけだくにさ)という作家も惹かれた。
 ともに残念ながら写真の撮影をしなかった。この次の機会に撮影してここに追加で掲げようと思う。


「熱々 東南アジアの現代美術」展感想(その2)

2013年04月21日 21時18分50秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 前回、「東南アジアの」現代美術」展の感想を記載した。他のブログを検索していたら、作家や作品が偏っていないか、ラオスが抜けているのはどうしてか、などの指摘があるブログがあった。ベトナム・カンボジアが少ないことも気になった。これについては私も同じ感想をもった。
 ただし、1回の企画展でしかも規模の大きな横浜美術館でもこれ以上の作品を網羅して展示するのは限界があることは考慮しなくてはいけないとは私ははじめから考えていた。ラオスの作家や作品が無いということについては、私も残念だと思う。 シンガポール美術館の収蔵品に該当作品がないのか、あるいはならやむを得ないのだが、主催の「公益財団法人 横浜芸術文化振興財団」や横浜美術館からの「残念ながら」というコメントはなかった。意図した取捨選択が無いことを願うしかない。ラオスについては国家そのものが、かなり財政的にも厳しい現実があることは承知をしている。しかし美術の「ラオスの今」を体現する作家はいないことはないと思う。
 私はひとつの企画展にすべての要素を放り込むことは困難でもあるし、全体が見渡せることなどありえないと感じている。網羅するには国別に、あるいは個々人の作家にスポットを当てるしかないと思った。それだけ東南アジアの美術の現代は当然にも膨大で、あらゆる要素・傾向があるはずだ。それをひとつの枠に当て嵌めて全体を俯瞰するというのはとても困難なものがあるようだ。もしもそれが可能だとしてもどこかに齟齬は、もしくは掬い取れないものが、あると思う。
 普段目にすることのない企画、限界も問題もあるだろうが、目にする機会があったこと自体を素直にありがたいと思うことにしている。

 さて、私がシャノン・リー・キャッスルマン(シンガポール)の「東南アジアの屋台車」について着目して写真を一枚ブログにアップしたら、友人のSさんから
『「東南アジアの伝統的ストリート文化」と解説されていたようですね。これは、面白いですね。‥、この「屋台」への着目の面白さは、「伝統的ストリート文化」というより、庶民の「したたかな」生活感の一つの象徴にあるのではないでしょうか。ちょっと、そこに着目するのも、いいなと思った』
とのコメントをメールでいただいた。
 さすがSさん、わかっていらっしゃる。私も同じ思いでアップしたので、早速本日雨が上がった14時に横浜美術館までウォーキングがてら出かけた。5枚組みの写真作品なので他の4枚も撮影してきた。(ただし、テレビで三国連太郎の追悼番組が放映されていたので、出発は1時間半遅れてしまった。そしてとても寒かった。)
 4回ほど訪問した韓国でも屋台は市場などで道に溢れていた。しかし日本と同じく、多分道路法などで規制されているらしい。市場以外は見かけなかった。日本では道路法で特に歴史的な行事以外は認められなくなっている。福岡では屋台が有名だが、やはり困難になっていて、かなり減ったと聞いている。交通事情や衛生上のことを考えると存続はやはり、かなり困難な状況だと思う。横浜でも横浜駅西口の川沿いのおでんの屋台も一代限りとなり、順次撤去・営業停止となっている。確かに食器も簡単な洗浄しかしないし、洗浄した水を川にそのまま捨てている。便所も路上だから衛生上・美観上の問題点は多い。決して安くはない。しかしファンは多い。雰囲気を愛する人も多い。

 屋台車の作品と説明は次のとおり。展示されているのは5点組み。それぞれがどの都市なのかは示されていない。

                  

久しぶりに人前での発言

2013年04月20日 16時27分55秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は1年と3週間ぶりに、ということは387日ぶりにネクタイ・ワイシャツ・革靴という出で立ちで組合の退職者会の年に1度の総会に出席。
 最初の議長選出までの司会をしろとのことで80名近い参加者の前で約10分ほど話す羽目になった。大勢の前で話すのは慣れっこだが、1年半ぶりとゆうのはやはり緊張する。

 当初は会の目的の再確認と総会の意義を挨拶として話し、議長選出までの仕切りということで話す内容を前の晩におおよそ決めていた。
 ところが開始前に、黙祷と資格審査役を兼ねて総会成立要件=参加者数の報告もすることになり、急遽求められあわてて話の順番や内容を変更。前段の挨拶も半分に圧縮せざるを得なくなった。おおよそ頭の中でまとめあげたのが、話す1分前。応用力を求められるこんな緊張がまた快感にもなっている。役員退任後1年半、体と脳味噌がそれなりに自然と反応した。

 総会後は懐かしい面々とビールで懇談。終戦直後の仕事のやり方や、私が採用される直前の仕事の問題点など現役の頃より”deep"な話題を聞くことができた。これを文章化して後世の組合員に引き継ぐことも託されてしまった。なかなかしんどい宿題ではある。

 久しぶりのネクタイと革靴はなかなか緊張する。身体に馴染んでこない。たかだか1年でこんなに違うものかと訝ったら、痩せたからだ、といわれた。本人としては、緊張の度合いの差と考えたのだが、本当のところはどうなのだろうか。
 
 帰途にMM線の駅で神奈川近代文学館の企画展が「井上ひさし」ということを知った。早めに行って見たい。6月5日までとのこと。
 

ビックリ!寒い一日

2013年04月19日 21時03分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝から寒い風が強く、一昨日の温かさが嘘のよう。朝退職者会の会報の記事の差し替えなどで1時間作業の後、ジョギングに出かけたものの寒いのでウィンドブレーカーを着用した。
 もどってからシャワーを浴び、横浜駅の喫茶店で読書をしようといつものとおり歩いて出かけたのだが、喫茶店では読書ではなく不覚にもすっかり寝入ってしまった。読書時間はわずか15分足らずだったと思う。280円の紅茶代で2時間半ほどの睡眠。考えてみれば安い買い物だったかもしれない。むろん家で眠れば無料なのだが。ジョギングの疲れだったかもしれない。

 寒い中を再び歩いて帰宅した。厚手の長袖のシャツとサマーセーター、上着で出かけたのだが寒いので途中でワンカップの日本酒を1合購入。帰宅後電子レンジで温い燗にして飲んだ。燗酒を飲むのは十数年ぶり。飲んでみてやはり私には燗酒は合わないなぁと実感した。口の中がベトベトするような感じで途中で飲めなくなってしまった。今回は何とか1合を飲み終えたが、最後の小さなお猪口で2杯ほどは強引に喉を通らせるように飲んだ。

 4月中旬は各美術館・博物館とも連休を前に展示替えのため、企画展が休みだ。学校の春休み前にいくつか見てまわりたいのだが、思うようにまわることが出来るだろうか。

 歳をとった所為なのか、ワイワイガヤガヤがますます嫌だ。特に子供の集団での騒がしい動きや甲高い声、無用なおしゃべりなどや不規則な動きに耐えられない。保育園・幼稚園・小中高の学校周辺、特に登下校時は避けて歩かないと頭が爆発しそうになる。このままではますます偏屈な、嫌われる年寄りになってしまいそうだ。本日も午後出かけて横浜駅からの帰り道、小中高校生の下校時間と重なるので、学校を遠回りで避けて歩いてきた。遠回りすること自体は気にならないのだが‥。
 月に2~3度は癒しの時間が必要な気分になる。

特に予定の無かった一週間

2013年04月18日 22時10分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日の白石ほかの旅行以外では、月曜の退職者会の幹事会をのぞいて今週は予定が入っていなかった。6ヶ月ぶりにのんびりとした一週間である。明日も予定は入っていない。土曜日に退職者会の年に一度の総会がある。

 昨日の旅行のまとめは本日の午前中に終わったので、明日は特に差し迫った予定はない。ルーベンス展の感想をあと1回書こうと思っているが、まだまとまらない。ということで、明日はのんびりと読書ならびに部屋の片づけを少ししようかと考えている。どの程度できるかはまったく想定も出来ないのだが‥。

明日は一転、気温がかなり低くなるとの予想。

白石川一目千本桜、白石城・船岡城址公園の桜、村田町の印象

2013年04月18日 14時20分08秒 | 山行・旅行・散策
 昨日パック良好で巡った桜の名所と村田町の印象を写真で。4月の14日日曜日が満開ということで、大変な混雑だったようだが、この日も十分に満開の桜を満喫できた。風が強く、生暖かな気温。散り始めたばかりの様子だった。

白石城
 言わずと知れた仙台伊達藩の片倉家の代々の領地に立つ白石城。桜の名所であることは知っていたが初めて訪れた。山行で二度、温泉で一度白石蔵王駅に降り立ったことがあるが、桜の季節は初めて。新幹線の駅前はいつも明るいが商店はなくさびしい。駅前にドンとパチンコ店が異様に目立つのがさびしい。東北本線の白石駅まで行けば商店も並ぶのだが‥。駅の中のこけしの展示場はなかなかいい。蕎麦店では温麺もメニューに入っているのはさすが。一度だけ食べたことがあるがこれが結構おいしい。今回は昼食付のバス旅行なので、食べなかった。

            


白石川一目千本桜
 大川原町から柴田町にかけての白石川の堤防約8キロにわたり1260本のソメイヨシノが咲く。川に向かってのびのびと枝を張ったソメイヨシノの連続は圧巻と言われている。ここも初めて訪れた。見事だが遠景で全体を写真に撮影するのはなかなか技術もいるようで、あきらめた。しかし川幅も広く、のびのびとした景色はうれしい。
 霞んで蔵王連山の残雪を見ることができなかったのは残念だった。

                  

船岡城址公園
 以前に秋に訪れ菊花展を見たような記憶があるのだが、はっきりしない。仙台までJRで480円ということなので、そんなに遠い距離ではない。学生時代にでも訪れてみたかったと反省。ここは仙台の伊達騒動の当事者原田甲斐の領地だったところで今では「樅ノ木は残った」展望台がある。この伊達騒動を扱った大河ドラマが1970年だったそうで、私が大学に入学して仙台に住み始めた年だ。大河ドラマにまったく興味が無かったのでまるで印象に残っていない。
 白石川の一目千本桜の遠景が大変美しい。またレンギョウやコブシも見ごろで、東北の桜の季節の特徴を十分に味わうことができた。

                  

蔵の町村田町
 村田町を訪れるのも初めて。たった45分程度の寄り道であまりに短い滞在であった。寄った「やましょう記念館」での案内だけだったが、この地で江戸時代に紅花が栽培され、京・江戸に販路を広げていたのはまったく知らなかった。紅花=山形という固定観念にとらわれていた。
 近くの酒屋に飛び込み、地酒を探したが仙台で幾度か飲んだ「乾坤一」というお酒が生産されているとのこと。ところが高級な4合ビンで3000円以上のお酒しか置いていないとのことで、断念。村田町の振興策としてつくったという小麦焼酎4合ビン1400円也を購入して帰りの新幹線のなかで飲んだ。

            

 小麦焼酎
   

 小麦の焼酎はこれまでお目にかかったことはない。初めて味わうことになった。帰りの新幹線で飲むこととし、白石蔵王駅に戻ったところで駅の売店でツマミとして「焼き紫蘇巻き」と「ビーフジャーキー」、および水割り用の水を購入した。
 まずストレートで飲んでみたが、いつもの芋焼酎とは違いまろやかな感じで喉に抵抗がない。香りや特有の味わいが特徴ではないのがわかる。かといって米や麦、蕎麦焼酎よりも飲み易いかというとそれほどの差は感じない。お湯がなかったのでお湯で割ったときの香りは不明だったが、水割りはとてもいい具合だった。そしてビーフジャーキーの強い味よりも焼き紫蘇巻きがツマミにぴったりだったような気がした。なかなかいけると思った。癖のない感じなので、そこでは好き嫌いが分かれそう。個性が無いといえば言えるかもしれない。しかし新たな挑戦という心意気を十分感じた。


 訪れるところがてんこ盛りのツアーであり、村田町ではもう少し滞在時間が欲しいところ。しかし桜は十分満喫した。

                  


白石より無事帰着

2013年04月17日 22時37分46秒 | 山行・旅行・散策
         

 とても温かい日和の中、白石蔵王駅からバスで宮城県南部の白石市、大川原町、村田町を巡って白石蔵王駅に戻ってきた。この間の日曜日が桜の満開だったらしいが、それでも十分に桜を満喫できた。ちょうどよい日程だったようだ。そして心配した雨も一切降らずにすんだ。詳しくは明日以降にアップ予定。

 さて、白石蔵王駅18時発の新幹線に乗る直前に、三宅島震度5強の地震のメールを受信。5強とすると被害が出ているなぁと予想したが、続報は入ってこない。火山噴火との関係もどうなのかということも予想されるのだが、これも続報が入らないまま、東京についてしまった。
 もっともその間に駅弁と村田町で購入した珍しい小麦を原料にしたという焼酎を飲んですっかり寝てしまっていたのだが。
 21時に、横浜の自宅についてテレビを点けてすぐ、三宅島のニュースが始まった。とその途端に緊急地震速報がテレビ画面にはいり、石巻で震度5弱とのこと。画面はすっかりそちらに切り替わってしまった。5弱だからほぼ被害は出ていないとは思ったが、マグニチュードもこちらの方が三宅島より大きいし、一昨年の大震災のこともありマスコミの扱いも大きくなってしまった。
 三宅島については続報で気象庁の記者会見の模様が入り、火山性地震とは様相が違うことなどの説明があったものの、火山との関連については結局判然としなかった。また店舗の棚の商品の倒壊などの被害も出ているようだった。

 しかし、3時間の差で東北新幹線に閉じ込められなくてよかった。東北新幹線は仙台-森岡間で一時止まったようだ。定刻どおりに帰宅できたのはさいわいであった。

白石の桜を見に・・・・

2013年04月17日 07時59分53秒 | 山行・旅行・散策
 本日は安く旅行券を手に入れ、親を同伴して宮城県白石付近の桜巡り。安いだけあって、朝早い新幹線で白石蔵王駅へ。あとはバスで白石城、白石川一目千本桜、船岡城址、村田町を巡る予定。帰りはまた新幹線利用での日帰りの企画。
 当初は天気予報は晴れだったが、だんだん怪しくなり、本日の予報では夜には降り始めるようだ。やはり雨男は治っていない。

 このような案内付きの日帰り旅行に一家で参加するのは、何十年振りかだ。一目千本桜という言葉は聞いたことはあるが見たことはない。

「熱々 東南アジアの現代美術」展感想

2013年04月16日 22時10分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
              

 本日は昨日から始まった横浜美術館の「熱々 東南アジアの現代美術 Welcome to the Jungle」展に出向いた。
 題名のジャングルについて「無秩序な、文明化されていない」といった意味を持つサンクリット語の「ジャンガラ」に由来するという。都市化が進み、かつての密林とは異なる姿を見せる東南アジア。多様な文化に価値観が共存し、ジャングルさながらの密度と熱気を帯びた東南アジアの現代美術をご覧ください」との表記がチラシに記載されている。
 なかなか東南アジアという括りで現代美術を鑑賞する機会がないなかで、気を惹く企画のような気がした。8カ国、25名の作家の作品が紹介されている。現代美術、特に「インスタレーション」と呼ばれる作品群は理解できないし、好みではない。しかし特に理由はないのだが、今回は是非訪れてみたいと考えていた。

 まず最初の作品がイー・イラン(マレーシア)の「スールー諸島の物語」という写真13点の連作。解説には「本作は現代人のアイデンティティーに関するステートメントになっている。スールーの人々の居住域の実際の境界はマレーシアとインドネシアにまたがる水に支配された海峡にあり、そのアイデンティティーや文化は流動的で謎に満ちている。私たちは歴史、運命、地平線を分かち合っているのだ。フィリピンでの体験から作家は、地理的な配置に左右される「真正の」アイデンティティーという概念に対して疑いを呈している」と表記されている。
 国民国家としての括り方や、政治的な国家編成に束縛されない人々にとってのアイデンティティーとは何かを問い続けている。このように既存の国家や政治体制の秩序から自由な立場を表明し、それらに対する違和感を作家活動の基本に据えている作家がいる。
 一方で植民地からの解放運動・闘争を経て国民国家としてのアイデンティティーは前提としている作家もある。
 私などは前者の思想にとても惹かれつつも、後者の作家たちが持つアイデンティティーの強さには羨望とともに、違和感を持つ。
 共通して言えることは、東南アジアで急速に進む都市化の波、そしてグローバル化の中で人々が共同体を解体してしまう社会への違和感、批判に自覚的に関与している姿勢だと思う。解放運動下でのプロパガンダとしての美術という括りから脱却しつつも、やはり社会との関わりについてのメッセージを自覚的に表現に取り入れざるを得ないのだろうか。メッセージ性の強い作品が並んでいる。



 私が気になった作品のひとつは、ティタルビ(インドネシア)の「小さきものの影」。
「作家の娘の胸像にはムスリムの母親が子供を守るために慣習的に唱える祈りの言葉がアラビア語で刻まれている。子供をいとおしむ母親の優しさがあらわされる。一方手の身振りは形骸化したアラビア語の暗誦に抵抗している用でもあり、宗教的価値を受け入れることへの拒絶も暗示する両義的な作品」との解説(要約)がある。



 もうひとつは、ロベルト・フェレオ(フィリピン)の「バンタイの祭壇」。
「スペインの支配に対する反乱ののひとつ、パシの乱をモチーフにして、ピラミッド型のキリスト教の祭壇に抵抗するように逆ピラミッド型に配置された人形の群れ。植民地のヒエラルヒーを揺さぶろうとするもの」と解説(要約)にある。どの人形も精巧なつくりとなっており、人形のひとつひとつが支配されるフィリピンの人々の象徴のようだ。



 三つ目はシャノン・リー・キャッスルマン(シンガポール)の「東南アジアの屋台車」。
東南アジア各都市の屋台を写した写真。その持ち主、営業する人は排除された写真だが、かえって屋台の共通性を浮き立たせている。屋台自身の照明が印象的だ。今回は、インドネシア、タイ、ベトナム、台湾の屋台の写真が展示されている。
「東南アジアの伝統的なストリート文化といえる屋台、急速に失われつつあるこれらをいとおしむような視線がある。長時間露光で細かい点まで表現している。屋台の主人が排除されることで、視線は道具や機械へ導かれ、屋台の本質に対する問いが喚起される」(要約)と書かれている。

 フラッシュ無しならば撮影可ということで、三作品を撮影した。解説も写真に撮ることが出来た。他にも見落としがあるかもしれない。会期中にもう一度訪れたいと思っている。図録は1995円、今回は写真を撮影したので購入はしなかった。

春たけなわ、何かと騒がしい

2013年04月15日 20時42分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は組合の退職者会の月に一度の幹事会。今週末の退職者会の年に一度の総会の議案などを討議して終了。
 行きは1時間かけて歩いて会場へ。帰りはかなりの遠回りをして、2時間かけて約10キロを歩いた。朝からの合計でようやく25000歩程。最近歩数が少々減っているので、心して歩く距離を伸ばすようにしたい。最低でも25000歩、できれば30000歩を毎日達成したい。すべて歩いたとして約16キロ~20キロメートル位の距離になるだろうか。



 よく晴れた日で、夕陽が大変美しかった。あわてて携帯電話のカメラで撮影したが、満足には撮影できなかった。

 歩いている途中の住宅街の信号のある交差点で、70をはるかに超えたと思われる老婆が交番の警察官に杖を振りかざして怒鳴り散らしていた。信号を待つ間、聞きたくも無いが耳に入ってきた。「信号を待つ時間が長すぎるからもっと短い間隔で信号を変えろ。歳よりは気が短いんだ」ということを何回も大声で繰り返している。警察官も根気よく丁寧に対応しているようだったが、いやはや大変だな、と警察官に同情した。しかしこんなのにかかわりたく無いので、さっさとその場を立ち去った。
 あの杖を振り回す勢いといい、大声といい、すごいものだ。私も現役の頃クレーマーに近い粘着質の苦情に散々付き合わされたのを思い出して、一気に憂鬱な気分になった。


 昨日の日曜美術館で河井寛次郎について放送していた。そこで取り上げられた作品がとても気に入って、昨日のブログに記載した。しかし陶芸についてこれ以上深入りすると自分でも収拾がつかなくなりそうなので、とりあえずネットで河井寛次郎について最低限の情報を仕入れたので、覚書としてここに記しておくことにした。
 取り合えず、この程度で一段落としたいと思う。下記の記事はただコピーしただけ。評価は何も下していない。

河井 寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8月24日 - 1966年(昭和41年)11月18日)は、日本の陶芸家。
陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも優れた作品を残している。
-学校での研究-
 当時の島根県安来町(現在の安来市)の大工の家に生まれる。松江中学(現島根県立松江北高等学校)を経て、1910年、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科へ入学する。寛次郎には師と仰ぐ者がなく、師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となる。東京高等工業学校では、陶芸家の板谷波山の指導を受けたほか、窯業の科学的研究を行った。1914年東京高等工業学校卒業後は、京都市陶磁器試験場[1]に入所し、東京高等工業学校の後輩でもある濱田庄司とともに1万種以上の釉薬の研究や、中国陶磁など過去の陶磁の模倣や研究も行った。1920年、五代清水六兵衛の技術的顧問を務めていた縁で京都・五条坂にあった彼の窯を譲り受け、「鐘渓窯」と名づけ自らの作品制作を開始する。同年、京都の宮大工の娘・つねと結婚する。
-華麗な作風からの転換-
1921年、「創作陶磁展覧会」を東京と大阪の高島屋で開催した。このとき東京高島屋の宣伝部長であった川勝堅一と知り合い、生涯にわたり親交をもつ。高島屋での陶磁展では、中国・朝鮮の陶磁の名作に倣い、科学的研究の成果を取り入れた超絶技巧の華やかな作品を発表、新人にして名人と一躍注目を浴びた。しかしやがて世評に反し、自身の制作に悩むようになる。創作陶磁展覧会と同時期に柳宗悦の集めた李朝の陶磁展「朝鮮民族美術展」を展観し、無名の陶工が作り出す簡素で美しい作品に感銘を受ける。“自分の作品は衣装であり化粧であり、中身の体はどうしたのか、心がけはどうしたのか”と、自らの作品制作を中断する。1924年、イギリスから帰国した濱田庄司に現地で収集した雑器・スリップウェアを見せられ、濱田から柳を紹介されその民芸理論に深く共感し実用的な陶器制作を新たな目標とした。
-民芸運動、日用の美へ-
 河井寛次郎記念館1926年、柳、濱田とともに日本民芸美術館設立趣意書を発表。古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「民藝運動」に深く関わるようになる。富本憲吉、黒田辰秋、バーナード・リーチらとも合流し、1929年に長い沈黙を破って開いた高島屋の個展では、古典から日用の器へと路線を変更した。寛次郎は各地を訪れ、手仕事の制作現場や、日本や朝鮮やイギリスの器から受けた影響をもとに、実用的で簡素な造形に釉薬の技術を生かし、美しい発色の器を次々と生み出して再び注目を浴びた。この時期以降、寛次郎は作家としての銘を作品に入れないようになる。
 室戸台風で五条坂の自宅が損壊したことを契機に、故郷の民家の形をもとに、登り窯の形に対応するかのような構造をした新しい自宅兼仕事場を自ら設計し、大工である実家とも協力して1937年に完成させた。この自宅兼仕事場が現在の河井寛次郎記念館になっている。同じ年、川勝堅一の計らいで「鉄辰砂草花図壷」がパリ万国博覧会でグランプリを受賞する。
-より奔放な作風へ-
 第二次世界大戦後、世界の民族芸術に関心を深めた寛次朗は木彫の制作も開始する。陶の造形も日用の器から簡素ながら奔放な造形へと変化を遂げた。材料の入手が困難であった戦時中より詩、詞の創作を始め、1947年には寛次郎の詞「火の誓い」を棟方志功の板画で制作。随筆「いのちの窓」を陶土に刻んだ陶板を完成させる。老境にいたり深い思慮を重ねた文章を多数残した時期だったが、壷や皿などの陶の作品は、荒々しい素地で用途にとらわれない自在な形状に、アクション・ペインティングのように釉薬を刷毛で打ちつけるような作品を残している。またあらゆる釉薬や造形を試し、その創作意欲が生涯枯れることはなかった。
 1955年文化勲章を辞退する。人間国宝、芸術院会員などへの推挙もあったが、同様に辞退している。1957年には川勝堅一の計らいで「白地草花絵扁壷」が、ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展グランプリを受賞するも、無位無冠の陶工とし晩年まで創作活動を行い1966年に76歳で没した。

 この文化勲章辞退、人間国宝・芸術院会員辞退などちょっと反骨精神豊かな人だったのかな、と追って調べたい気もするが‥。それよりも作品は見てみたい。

 京阪電車「清水五条」駅近くに「河井寛次郎記念館」というのがあるようだ。また、「火の誓い」、「蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ」(ともに講談社文芸文庫)という二冊のエッセイと詩が刊行されている。


 今回はこの程度の調査で終わらせることにした。いづれ何かの折に、自分なりの感想を掲載できるかもしれない。

本日の贅沢

2013年04月14日 23時28分58秒 | 料理関連&お酒
   

 本日購入した芋焼酎はこれ。1180円。初めて見る銘柄。飲んでみたらずいぶん飲みやすい。芋焼酎特有の味よりは丸い味に思えた。ストレートで飲むにもいい。本日はラム肉を焼いた料理だったが、これは魚の方が良かったかもしれない。煮付けなどよりは薄塩で焼いた魚か、刺身が合うかも知れないと思った。
 ただし私の舌はそんなに肥えていないし、敏感ではないので、頓珍漢な感想かもしれないのであまり深くは追求して欲しくない。

 本日は夕方には風も少しおさまったので、思い切ってジョギングに出かけた。山の尾根道は風がまだ強そうなので、団地から昔でいえば沢沿いの道を下り、山の麓沿いに相当する道を走った。神奈川大学のキャンパスの周囲も一周した。住宅地の間を縫ういつもの道だが、約7キロほどのコース。気温が高く、途中でウィンドブレーカーは脱いで半ズボンのポケットにねじ込んだ。

 今夜は再び風が強くなり、天気が不安定になるとのこと。テレビも時々画面が乱れている。雷雲が発達しているようだ。明日は外出するので雨は残らないで欲しいが‥。

 朝、河井寛次郎についてちょっと気になった旨記載したが、コメントにもあったようにこれ以上深入りすると収拾がつかなくなりそうなので、とりあえずネット段階での知識の収集にとどめておこうと思う。
 でもあの形と色、なかなかそそられたことは確かだ。

「ルーベンス」展感想(その2)

2013年04月14日 22時35分50秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 1612年頃のこの絵、私は初めて見たのだが、そのときとても不思議な感じがした。何かギクシャクしているというか、まとまりが無いというのか、焦点はどこなのだろうか、あるいは全般に統一感が感じられないような絵だと思った。
 絵をいくら眺めても何が理由なのかわからない。二人の小さな子供に明るくライトが当たっているので、この子達が有名なローマの起源神話に出てくる狼に育てられた幼い二人と、右奥が二人の子供を見つけた羊飼いという設定はわかった。しかし左奥の男女二人が誰なのかわからない。羊飼いと思しき男も、子供二人もこの男女二人とどのような関係なのか、関係が希薄だ。狼+子供二人、男女二人、羊飼いこの三つの要素が無関係に画面に同在しているように見える。さらに狼と子供二人も何故かつながりが希薄にも思えた。
 絵の横の解説を見ても題名の由来が書いてあるだけで私の疑問は解決しない。でも何かひかかる。チラシの一面に掲げられた絵でもあるしよほど有名なのだろう。しかし自分にはこの絵はピンとこない絵の部類なのだろうということでそのまま通り過ぎた。
 図録を購入し、この絵の解説を読んでようやく飲み込めた。左奥の男女二人は、土地の精霊と川の水源を象徴するニンフであり、人間には認知できない不可視の存在なのだそうだ。また三羽のキツツキがいて、一羽が子供にサクランボを与えているとのこと。二人の子供は狼だけでなくキツツキにも育てられた存在ということらしい。また、狼と子供二人については、ローマの古代彫刻を絵画化したらしいが、その際、子供二人の大きさを実際よりも大きく描いてこの建国神話の主人公を強調したらしい。
 私の無知を恥じ入ると同時に、私が抱いた違和感は間違っていなかったことがわかり、ちょっと自我自賛と相成った。
 私の違和感どおり、この左奥の二人は狼・子供の一団、羊飼いとはまったく無関係に存在する精霊であるので、視線も交わらないし、他の存在に関与しない存在ということだ。ローマという環境の象徴らしい。この男女二人でひとつの世界が存在する。
 そして一人の子供は狼の乳を飲んでいるが、もう一人はキツツキの運んできたサクランボを取ろうとしているということだ。私はこのキツツキの存在が目に入らなかった。狼とキツツキと互いに無関係らしい。狼・キツツキ・子供二人これがひとつの世界を作っている。しかし子供の形を大きくしたことで、狼との関係が構図上ちょっと不思議な関係になったのだろう。狼は子供の足を舐めていると図録の解説に記載がされているが、実際は舐めてはない。狼の視線は子供を無視している。これは不思議だ。子供は羊飼いの存在に気付いていない。
 小さい子供、二人一緒に並べるとお互いの存在に気をとられているようにも振舞うし、お互いに無関係のようにも振舞う。この不思議な関係を念頭にして二人の子供を描いていると思う。子供をよく観察している画家だと思った。
 そして子供を発見した羊飼いは、子供だけに視線が向いている。狼やキツツキの存在が目に入っていないようだ。狼もキツツキも羊飼いの存在に気付いていない。
 三つの要素が、明確にお互いの存在を無視して、それぞれの時間と存在が交わっていないのだ。しかも狼とキツツキも互いに関係が無いようだ。
 これが私が抱いた画面に対する違和感の原因だとようやく理解した。特に精霊の存在が絵を難解にしてはいないだろうか。
 そういえば、絵巻物などの日本の絵も時間は画面によって違う時間が流れている。この時代、洋の東西を問わず、画面に時間軸のちがう複数の世界が同在するのが当然であったことを忘れては鑑賞にならない。時代を超えた絵画の鑑賞の難しさを実感した。
 現代に住む私にはちょっと理解が難しかった。子供二人の仕草、狼の形、キツツキの動き、羊飼いの動作、男女の精霊それぞれはそれぞれに動きがあって、面白いのだが、統一感はない。

 さてこの絵に深入りしていては他の絵に届かないので、次の絵にいこう。次に私の目にとまった絵は、「聖母子と聖エリザベツ、幼い洗礼者ヨハネ」と「眠る二人の子供」。前者が1615年頃、後者が1612年頃の作品。

   

 先ほどの狼に育てられた二人の子供といい、「眠る二人の子供」も、幼いキリストとヨハネも、良く似ている。「眠る二人の子供」はルーベンスとは仲がよかったが早世した兄の遺児二人の絵らしい。ルーベンスはこの二人の兄弟の後見人になって面倒を見たという。ルーベンスの子供はこの子供の絵をいつも下敷きにしているのかと思うほどに雰囲気がよく似ている。そして愛らしい。私はあまり好みではないが、このふくよかな子供の容姿がルーベンスの人気の秘密であろう。子供への愛情が十分感じられる。あるいはこの時期、これほど克明に子供を対象に絵を描くことがあったのだろうか。
 「聖母子と聖エリザベツ、幼い洗礼者ヨハネ」の絵だが、聖母子に光があたりこの二人が輝いているのは宗教画としては理解できる。しかしマリアの若々しさに較べて、ヨハネは母親のエリザベツのあまりに年老いた容姿に部外者の私は少々唖然とした。ほぼ同年代の子供二人の母親としてはあまりに差があり過ぎる。ラファエロにも同様の絵があるのだが、これほど差はつけていなかった。ヨハネはキリストと同様に光があたっている。4人の登場人物の内3人に絞られた画面構成には驚く。
 もうひとつ、エルグレコでもそうだったが、マリアの乳房の非現実感、ギリシャ神話の裸体に比べ、あまりに非現実的過ぎるのは宗教的な観念=聖母マリアの聖性のなせる業なのかと思った。同時に幼いキリストとヨハネもよく見ると、ちょっと現実離れしすぎていないだろうか。子供は福々しいとはいえ、こんなにもぶよぶよしているだろうか。この時代の理想像としての子供の姿態かもしれない。あるいは強調してるのかもしれない。子供に対する過剰な思い入れが子だくさんだった画家にはあるのかもしれない。
 子供については、少々類型化、あるいは過剰な思い入れに陥ったように私には思えるのだが、どうであろう。

風が次第に強く‥

2013年04月14日 11時52分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は休養日。世間も日曜日。風が次第に強くなっている。朝の内はまだそれほどでもなかったが、今はうなりをあげている。先ほどは震度3の地震もあった。今日はおとなしくしていろということなのだろうか。

 午後からは団地の管理組合の諮問機関の会議がある。それまでにジョギング・ウォーキングをしようと思ったが、この風では何が跳んでくるかわからない。また横浜駅までの往復をしようにもやはりこの風では強すぎる。



 朝、日曜美術館で河井次郎をやっていた。あの陶器の形と色に惹かれた。じっくりと見ることができなかったが、時間があれば資料を探してみようかとも思ったが、そのような時間があるだろうか。
 これがネットで探してきた写真。形も色も大胆というか、奔放なようでいてきっちりと計算されている形だ。
 何かの展覧会があれば、アンテナを張っていて是非見てみたいものだ。

本日は千葉まで遠征

2013年04月13日 22時45分36秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日は俳句結社誌の大会ということで、午前中に横浜駅をたって、千葉市の千葉駅前まで出かけた。千葉は現役時代に労働組合の集まりがあり、3度か4度訪れたことはある。しかしいづれも会合が目的なので、千葉駅を降りて会場までの往復をしただけ。千葉という街並をじっくりと見学することはしていない。
 今回も残念ながら午後12時半の受付から19時半の大会終了まで駅前の会場に詰め切り、終了と同時に横浜からの参加者とともに電車に乗り街並を見学することもなく、帰途についた。
 政令指定都市となって街並の発展著しい千葉市の景観を見学したいのだが、なかなかその機会がない。現役を離れた私が街並を見学して仕事に行かせるわけでもないが、それでもいろいろな街並を見学することはワクワクするものがある。地域地域でさまざまな試みや努力があるのを見るのはやはり楽しいし、その街ならではの施設や景観を見る楽しみは仕事を通して身につけることが出来たと思っている。

 しかし1時間あまり、横須賀線にじっと座って過ごすのはとてもつらかった。普段何しろ何かにつけ体を動かすことばかり考えているので、じっとしているとエコノミークラス症候群でも発症するのではないかという脅迫観念が頭をもたげてくる。高血圧の薬も中止となったり、再開となったりと改善しつつあり、コレステロール値も基準値内に収まるようになっているので、そのような心配はまったく無いと言われている。しかし第2の心臓といわれる両足の太ももとふくろはぎの筋肉が張ってきてつらくなる。
 飛行機なら便所の往復などを利用して歩いたり、屈伸運動をしたりする位は出来るのだが、電車では車内を歩き回ったりするのも何となくみっともなくて遠慮してしまう。それでも文庫本の半分以上を読み終えることが出来たので、満足することとしよう。
 帰途も同じようにじっとしていた。通勤客でそれなりに混んでいて、歩き回ることはもともと困難であった。帰宅時間も遅くなり、本日のウォーキングは諦め明日にまた体を動かすこととした。

 さて、俳句の方だが100名を越す参加者があり、今回の大会に向けた俳句が800余句ある中で、とりあえず昔の俳句を投句したところ、主宰の選に1句入っていた。おかげでお酒もおいしく飲むことが出来た。

★五月闇水の匂いのその先に Fs


追悼!ザオ・ウーキー

2013年04月13日 06時37分58秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ザオ・ウーキー氏が亡くなったとのこと。92歳だったという。
「ハロルド」というブログ”http://blog.goo.ne.jp/harold1234”で知った。

 ブリヂストン美術館に行くと必ず最後はザオ・ウーキーの絵をじっくりと見てから、館をあとにする癖がついている。
 「07.06.85」のあの青の印象は深い。さまざま表情見せる海のようでもあり、空のようでもあり、果てしない宇宙空間の奥を覗くようでもあり、見る度に自由に想像できる。白もまた引き込まれる。原初の海での生命の誕生や、人の営み、人工の都市景観の象徴のようにも見える。
 次から次に湧いてくる想像に身を遊ばせることができる。時間があっという間に過ぎていく。その時間がうれしい。あの絵の前に立つとそのような自由な飛翔に意識がすぐに移行するから不思議である。この意識の飛翔をもたらしてくれる絵、これだけが私の絵に対する評価軸だ。

「21.Sep.50」


「07.06.85」


 初めて見たのは「21.Sep.50」。パウル・クレーの絵かと思ったのだが、作者を見てビックリ。ザオ・ウーキーという名をしっかりと頭に刻み込んだ。そしてその後「07.06.85」を見てこの絵がもっとも好きになった。

経歴を見ると、
1921 北京に生まれる。生後6ヶ月のとき、上海に移る。
1935 杭州美術学校に入学。
1948 パリへ移住、アカデミー・グラン・ショミエールに通う。
1951 ヨーロッパ各地を旅行。
1957 アメリカを旅行。同地の作家たちに影響を受ける。
1958 スーラージュとハワイ、日本を訪問。香港で二度目の妻メイと出会う。
1964 フランス市民権を取得。
1972 妻メイの死により、制作意欲を喪失。24年振りに祖国を訪れる。
1977 フランソワーズ・マルケと再婚。
1982 京都国立近代美術館にて回顧展。開会式に出席。
1985 母校の杭州美術大学で講義を行う。

 「水墨画など東洋の伝統を踏まえた抽象絵画」、「東洋と西洋が融合した叙情的な抽象画」とマスコミは紹介しているが、技法的なことはわからないが、これらの評はどうなのだろうか。生前に言われているとして本人は納得していたのだろうか。もし技法上のことならば教えてほしいと切にお願いしたい。
 絵として、一枚の作品をとおして前にたたずみたくなるその絵の魅力を言い表すのはなかなか難しい。上のような評を言ってすべて言いおおせたような気になるのがもっとも怖ろしい。
 ブリヂストン美術館はザオ・ウーキーのコレクションに力を入れている。いくつか見た作品、どれも私は同じように好きだ。
 亡くなったと聞いて、また近いうちに見に出かけよう。