Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

暑さがうれしい

2013年05月10日 23時39分18秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日から半袖で出歩くようにした。本当はもう少し前からでもよかったのだが、なかなか踏ん切りがつかなかった。もう少し前から半袖のシャツに薄手の背広や上着を羽織ってもよかった。
 長袖から半袖になるととても二の腕が寒く感ずる。ジョギングの時はもう大分前から長袖のシャツを腕まくりしているのだが、普段外に出るときに躊躇してしまう。ごく薄く軽いウィンドブレーカーをリュックの底にしまって持ち歩いているのだから、帰宅が遅くなったり、夕刻に気温が下がったときことを心配しても意味はないのはわかっている。そして二の腕のこの寒いという感覚は、一日か二日ですぐに慣れてしまうのはわかっている。だが、なかなか思い切りができない。
 しかし慣れてしまえば実に爽快だ。腕が軽くなった気持ちだ。半袖の口に当たる風が実に心地よい。なんでもっと早く半袖にしなかったのかと今度は逆に悔やんでしまう。人の感覚は当てにならないとつくづく感ずる。
 本日などは、夏日となり、初夏の陽射しが強かった。日中にいるともあっとした感じに暑かった。何故か真夏の照り返しの中を歩いているような気分になった。実はこの感じが私は好きだ。私は真冬が真夏か、両極端の気温・気候が好きなのだ。
 さらにどちらかといえば、この真夏の照り返しの中に身を置くのがもっとも好きなときかもしれない。特に夏の山の森林限界を超えて岩場の登りで汗を垂らしながらかんかん照りの中を歩くのがうれしい。街の中でアスファルトが融けるような中を歩くのもうれしい。ほとんどの人が外出を控え、熱中症におびえるような時に平気で歩き回る。さらにクーラーがとても嫌いだ。
 いつからこんなことになったのか。あまり記憶ははっきりしないが、30歳になる直前にジョギングと節食で大幅な減量をしたとき以来のことのように思われる。走った後にも暑さで汗がアスファルトにしたたり落ちるのを心地よく感じた。しかも同時に、冬の寒さも好きになった。長野県の北方のある温泉で親族とともに年末年始を過ごしたとき、氷点下で飛ばされそうな激しい寒風のなか信濃川の土手を10キロほど走ったのがとても心地よかったことを覚えている。ともに生まれて初めての感覚であった。
 昨年からのジョギングの再開でこの記憶がより鮮明によみがえってきた。昨年の夏も今年の冬の寒さも楽しく過ごすことが出来た。
 しかし不思議なことに、秋の終わりから迫ってくる寒さ、そして春、梅の頃の気温の状態があまり好みではない。何故か寒さを強く意識してしまう。気温の変化に体が馴染むのが遅くなっているのかもしれない。歳のために。やはり確実に体は老化しているのであろう。さびしい限りだ。

本日新月、旧暦4月1日

2013年05月10日 11時49分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 天候も気温もすっかり夏の日である。
 昨日の夜は大久保まで出向いて月に一度の飲み会。一昨日依頼された健保関係の提出書類の用紙をネットで探して印刷したものを渡した。週明けにも入院とのこと、何かあわただしい。

 横浜駅から大久保に行くには、湘南新宿ライン-総武線で大久保、東横線-副都心線で新宿乗換え総武線大久保、あるいはそのまま東新宿から大久保まで歩く。この三つの選択のうち、東新宿駅から大久保駅まで歩いてみた。東新宿駅は初めて降りた。改札から一番遠い出口は階段ではなくエレベーターというのが不思議だが、大久保通りと明治通りの交差点に出る。大久保通りをどちらのほうに向かうのか、掲げてある地図ではどうしてもわからず人に聞いてしまった。約10分で新大久保駅、5分もかからずに大久保駅に着く。しかし夜の19時、狭い歩道は混雑して歩きにくい。帰りは酔っぱらいが多そうなので、帰りは別ルートにしようと考えた。
 21時半過ぎにいつもの店を出て、今度は大久保駅から新宿駅東口経由で新宿三丁目駅まで歩き、副都心線-東横線を選択した。その方がJR寄りは安いのだが、それよりも、寝過ごして戸塚・大船やさらに遠くに連れて行かれてしまうより、元町中華街で終点のほうが安全なのでこのルートにこだわってみた。そうなのだ、恥ずかしながら、以前遅くまで飲みすぎ、新宿から湘南新宿ラインに乗って平塚駅まで行ってしまった。上りはもうなくなっていて、タクシーで横浜にもどり大変な出費を強いられたことがある。
 昨日はそんなに飲まなかったし、帰りも早かったから特にこのルートにこだわる必要もなかった。新宿三丁目までスタスタと歩いたが、自信がない場合は、大久保駅から新宿駅までの1駅はJR総武線を使ったほうが安全かもしれない。

 東新宿駅から大久保駅に行く途中の100円ショップにふと入ってみた。探していたオシボリをいれるプラスチックの入れ物2本とオシボリ2枚のセットを見つけて購入。これは新しく飼うことになったインコ用。このインコ、籠の中に居て人の姿を見ると大騒ぎで籠から出すように要求する。それを無視していると散々騒いだあとはいじけるようにトイレットペーパーの芯の中に身を入れておとなしくなる。
 はじめは遊び道具として何の気なしに芯を入れてみたのだが、ずいぶん気にいったようで当初は夜寝るときもこれに身を入れて寝ていた。今は止まり木に止まって寝るようになったが、それでもかまってやらないとこの芯の中に入り込む。その仕草が妻にはとても可愛らしく映るらしい。トイレットペーパーの芯は紙製なので糞で汚れる。毎日取り替えるだけのトイレットペーパーの消費があるわけではないので、プラスチック製のものを探していた。
太さはトイレットペーパーの芯とほとんど同じ。問題は芯と違って半透明なのと肌触りが紙とは違うこと。特に半透明というのは、落ち着かないかもしれない。インコにもプライバシーの保てる空間が必要なのかもしれない。これで気に入ってもらえれば洗って再利用できるので助かる。

 このオシボリ用の筒、本日籠に入れてみたがまだ中に入らない。ちょっと勝手が違って戸惑っている様子。気に入らなければ残念ながら、トイレットペーパーの芯に戻すしかない。本日一日様子をみることにした。

 もうひとつ、昨日缶コーヒーの大き目のボトルを購入してリュックのポケットに入れていたら、口のキャップの隙間からコーヒーがしみ出てリュックが濡れてしまった。文庫本に多少のシミが出来、他のものも若干湿っていた。キャップをあらためて閉めてみたが、ゆるくはなっていなかった。金属製のボトルのキャップはペットボトルほどにはキチンと締まらないのか、あるいはこの個体に欠陥があったのか。本日はリュックを洗わなければならない。

 ジョギングも含めて結果としてずいぶん歩いた。久しぶりに34000歩ほどの歩数となり、お風呂で十分温めたが朝もふくろはぎが多少張っていたので、本日のジョギングは中止して、街中のウォーキングに切り替えることにした。最近は少し軟弱になっているのかな?

 つまらない記事を書いてしまった。退屈に思われたならばゴメンナサイm(__)m

気分は落ち込み‥

2013年05月09日 13時05分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 この歳になると友人・知人・世話になった先輩さらには後輩などからも病気の話が飛び込んでくる。
 そのような話を聞くたびに気持ちが落ち込む。ただ頼りにされていろいろの手続き上のことなどを聞かれるのは、反面「頼りにしてもらっているなぁ」、あるいは「忘れられていないな」と思うこともあり、複雑な感慨が湧いてくる。
 そんなことで本日は気持ちは沈みがち。

「続・ヨーロッパ芸術を考える」講座

2013年05月08日 21時46分11秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨年度の後半に行われた神奈川大学の講座「ヨーロッパ芸術を考える」の続編が明日から開始される。受講者が少なかったので継続して行われるのか、ちょっと心配したのだが、継続となってよかった。
 5回の連続講座になるようだが、明日の第1回が「フランス・ロココと新古典主義」、第2回「イギリスとドイツのロマン主義絵画」(5/16)、第3回「イギリス・ラファエロ前派の絵画」(5/30)、第4回「フランス印象派と後期印象派の絵画」(6/6)、第5回「オーストリアとフランスの「新しい芸術」運動」(6/13)と続く。
 第1回から第3回まではまったく私の知識がない絵画の世界。第4回・第5回の分も我流の理解だから謙虚に講義を聴く楽しみがある。むろん前回の講義の伊坂青司氏の講義である。資料もわかり易いし、講義の流れに即した丁寧な資料である。こんなにも丁寧に資料を作成してくれることにも感謝している。
 前回の講義以降、エル・グレコ、ラファエロ、ルーベンスと絵画展が続き、その間にも日本の絵画では円空展、白隠展があり、有元利夫展、二川幸夫展、ロバートキャパ・ゲルダタロー展、北井一夫展、川瀬巴水展、マリオ・ジャコメッリ展などの感想を書いてきた。これをこなしたのは、あの講座での刺激のおかげであったと思う。

 明日はこの講義のあと、いつもように大久保で月に一度の楽しい飲み会がある。ほとんどが私より年上の人の集まりであるが、私としてはとても面白い。私は団塊の世代直後の世代だが、思想も行動も判断基準も団塊の世代の影響を大きく受けてきた。彼らの生き様を目の当たりにしながら最後まで付き合うのが、私なりの生き方なのかも知れないと思っている。


緑内障は高くつく

2013年05月07日 22時20分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午後から郵便局で受講料の支払いに出かけたが、その前に緑内障の目薬がなくなっていることに気付いた。連休中になくならなくて良かったものの、あわてて15時からの診察におもむいたところ、14時50分にはすでに10人近くが受付を終わって待っていた。連休明けは病院も混むのだが、毎日点眼しないといけないので嫌だとはいってられない。薬局も含めれば1時間以上ははたっぷりかかってしまった。視野検査では症状が進んでいないらしいが、眼圧は依然として上限値に近い値だという。それで本日から点眼薬を変えてみようということになった。
 それにしても緑内障の薬は高い。これは何とかして欲しいのだが、ジェネリック薬がないとのことだ。財布に厳しい病気になってしまったものだ。

 以前から、ジョギングやウォーキングをしたり、登山をして終了地点に近くなると、あるいは夕方になると、ものが二重に見えることがしょっちゅうある。月が2つに見えたり、道路標識の字が二重に見えるのだ。焦点が合わないようで気になっていた。昨日も夕刻そのようになった。ただし30分もするとなおる。昨日も焼き鳥屋を出たときにはそのような症状はなくなっていた。
 本日、気になったのでそのことを眼科医に告げたところ、一過性の斜視の症状なので心配ないとのこと。疲労によるもので誰でもなる。二重に見えたら疲労が蓄積している証拠だと思って、体や精神の疲労を取ることを考えるようにいわれた。確かに登山中にこの症状が出たら、登山道を歩くのが怖くなる。登山中の場合は特に休息に心がけたほうが良さそうだ。

 明日から今年度の講座の授業がほぼ本格化する。明日の授業を受ける支度を忘れないでしてから就寝。どうも学生時代に戻ったような気がする。いや大学生の頃は満足に勉強もしなかったから、中・高校生の頃と言い換えなければならない。ずいぶん昔のことになってしまった。


連休明けの休養日?

2013年05月07日 11時03分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は遠出をしたため、本日は休養日。朝からボーっとしている。風がとても強くうなりが絶えない。団地のほぼ真ん中なので、常に東西に並ぶ号棟にそって風が東西に吹きぬける。南北からの風が強い日も基本的には風は東西に吹く。それでも南側の方が開けているので、南ないし南西の風の場合は多少ベランダに吹き込むことはある。台風が通過する時などはそのような現象となる。そんな日の翌日はベランダ側の窓拭きが大変である。
 この季節となると風のうなり声も枝のすれる音や枯れ葉のたてる乾いた音ではなく、枝の擦れる音も水気を含むようであり、さらに新緑の葉のためかくぐもっていても明るい音に聞こえてくる。風の音程に特に変わりはないのだから、あくまでも気分的なものではあろうと思う。

 世の中は、連休明けで本日からいつもの仕事パターン。私の方は連休中出歩き続け、特に昨日は「風の強い中海風と強い陽射しを直接に受けて歩いたので休養日である」なんて宣言できるのは、引退したもののわがままであることはわかっているが‥。
 子供が小さい頃、連休中は毎日のように近くの広い公園に行って、親子で散々走り回り遊んだ。そのため連休明けは休暇を取って休みたかったが、貯まっているであろう仕事、押し寄せてくるであろう仕事を思い浮かべて連休明け1ヵ月ほどは毎年休むことは出来なかった。

   

 昨日訪れた神社・仏閣や道すがら撮影した写真の整理はオアズケ。午後からは受講する講座ごとにくる請求書をもって郵便局まで払い込みに行く予定。この5月と下半期の10月・11月が神奈川大学の公開講座の受講料の払い込みの時期である。妻にお金をせびらなければならない。

横須賀美術館「街の記憶」展 感想

2013年05月06日 23時13分56秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 お昼過ぎに家を出て、浦賀駅へ。13時50分過ぎに浦賀駅の傍のコンビニでおにぎりを1個の昼食を済ませてから、ペリー来航以降の歴史の表舞台に出てきた神社や寺院を巡りながら観音崎経由で横須賀美術館まで歩いた。美術館に着いたのが14時45分過ぎ。家を出るのが遅かった。もう少し早めに出るべきであった。



 美術館についてみると建物の外に大勢の人が椅子に座って海を見ながら食事をしている。ずいぶん混雑していると心配しながら館内に入ってみるとここのレストランの外で海風に吹かれながら食事とビール・ワインを楽しむ人がほとんど。目当ての美術館の展示を楽しむ人はごく少数であった。まあ、このような場所がらではこのような美術館の楽しみ方があってもよいのだろう。明るい海の景色と広い敷地はとても解放的で気持ちがいい。

   

 企画展だけでなく収蔵作品の展示も含めて900円を払って、まずは企画展から。
東松照明、森山大道、浜口タカシ、北井一夫などの私の知っている写真家の写真が並んでいる。森山大道の写真などに感銘を受けながら、次の部屋に入ると高橋亜彌子、若江漢字など私の知らない写真家のコーナーが続いた。
 この中で、高橋亜彌子の横須賀出身のさまざまな分野の芸術家のポートレートが目を惹いた。特にピアノストの野島稔と作曲家の團伊久磨の肖像写真が面白かった。野島稔は1945年生まれで私より6歳年上で現在東京音楽大学学長になっている。私はたまたま1973年頃だったか帰省中に東京厚生年金会館で野島稔の演奏会を聞いたことがある。記憶ではNHK交響楽団だったと思うが、誰のピアノ協奏曲だったかトンと記憶にないのだが、そのエネルギッシュで若々しい演奏にとても興奮したことを覚えている。第3回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールに第2位優勝して間もない頃の若々しい演奏だったのだろう。演奏とは裏腹に演奏後の物静かな感じの挨拶にも好感がもてた。
 ポートレートでは度のとても強い眼鏡をかけて、物静かで控えめにカメラの方を見ているのだが、ちょっと視線がカメラからずれている。極度の近視の所為なのかもしれないが、どこにあのエネルギーを秘めているのだろうかというように映っている。とても懐かしい顔に遭遇したように思った。
 團伊久磨はカメラを見下ろすように、そしてトレードマークの煙草を手にして不遜な態度に映っている。撮影した高橋亜彌子は、團伊久磨の性格を人を見下すような視線で表したのかと思うほど、私の誤解かもしれないが、私の團伊久磨のイメージぴったりに撮影していると思った。團伊久磨のエッセイは大昔に2~3編読んだだけだが、私はあまりいい印象は持たなかった。
 野島稔と團伊久磨、二人の音楽家に対するイメージがぴったりと一致したのがうれしかった。
 石内都の「絶唱横須賀ストーリー(野比海岸)」は、風になびく葭原をざらついた画面で海を背景に大写し写しこんでいるのだが、これが私にはとても印象に残った。
 また若江漢字の二枚一組の写真、大きさの違う玉を同じ大きさに見せながら背景の風景を大きくぼかした作品、「だから何なんだ」という思いもしつつもとても面白く鑑賞した。

 横須賀という街の戦後の歴史を刻んだ写真作品、そして横須賀の今も捉えようとする写真作家たちの営為が展示されている。なかなか面白い企画であると感じた。図録は1400円、今回は遠慮した。

 収蔵作品では、佐伯祐三「窓のある建物(パリ風景)」(1925年)、そしてビックリしたが、松本竣介「お濠端」(1940年)、藤田嗣治「ル・アーブルの港」(1917年)の3作品があり、とても興味深く鑑賞した。



 まず佐伯祐三の作品、売店ではカードは販売していなかったが、作品の傍にモノクロの写真と解説があった。1925年は佐伯祐三がユトリロの影響を受けてサロン・ドートンヌで入選するなど帰国直前で充実していた頃の作品。



 松本俊介の作品1940年というから開戦前の重苦しい時代、時代はこぞって皇紀が喧伝され、強制された時期で2600年と書いたサインがある。青と緑という二つの色の色調で遠近を表した独特の画面。濃い緑色の三角形の樹木のかたまりがありどこか不安定なものもあるような不思議な絵だ。



 藤田嗣治の絵は始めてみる色調の絵。1917年という年、第一次世界大戦で帰国しないことを選択し、トロン・ドートンヌに入選する直前の絵ということらしい。モノクロの画面なのでわかりづらいがあの藤田嗣治の白はない。ちょっと陰鬱な風景に人物三人が点景として目立たないように書き込まれている。画家の精神状態を表しているのだろうか。
 この3点、いづれも説明書が作品の傍に置いてあった。主要な作品にはこのような解説がおいてあり、とても親切な展示だと感じた。ただし松本俊介の絵を除いた他の二つの作品は、カラーのカードがなかったのが残念であった。
 説明にもあるとおり、この3人の画家の重要な時期の作品が収蔵されており、なかなかすごいことだと感じた。
 その他の収蔵作品では、日本画家水谷愛子の老人の顔の作品などいくつか目を惹いたものもあるが、今回は記載を省略。
 なかなかいい美術館であった。

 美術館で思ったより時間がかかった。収蔵作品がなかなか見所があり、見るのにも予定外に時間がかかったためだ。16時30分に美術館を出て、大急ぎで横須賀中央駅ないし汐入駅をめざしたがちょっと無理であった。特に海岸沿いの護岸工事のあとの公園となっているところは風がとても強くて、幾度も立ち止まって風をやり過ごす有様。それでもジョギングしているたくましい人が何人もいた。明らかに70代後半の人もおり、そのたくましさに脱帽。
 なお、今回初めて道路沿いの案内で知ったのだが、この16号線の終点近く、走水の近辺は、奈良時代の頃の古東海道と比定されているらしい。
 私は目標の手前、堀の内駅でウォーキングは終了。駅前の立ち飲みの焼き鳥屋に入ったのが17時過ぎ。ホッピーの焼酎をお変わりしてシシトウ、ネギ各2本。1500円未満で終わりにして電車に乗った。横浜についてみると路面が濡れていてビックリ。雷もなったとのこと。電車に乗っていたためか気付かなかった。家まで歩いて総計27000歩で本日のウォーキングは終了。
 

浦賀道を横須賀美術館へ

2013年05月06日 10時51分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 連休最後の日、無職の私ども夫婦には連休というものは関係ないどころか、人ごみや値段の高い宿のことなどを考えると、連休とは家でおとなしくしているべき時だ。
 そうはいってもじっとしていられない私はちょこちょこと出ずっぱり。本日も風が若干強いが一人で出かけることにした。予報では気温が25度くらいまであがる予想。腕まくりできるシャツを着て出かけることにする。
 大納言様に教えてもらった横須賀美術館の「街の記憶」展。昨日の神奈川県立歴史博物館の「江戸時代かながわの旅-「道中記」の世界-」展にも刺激を受けて、浦賀道である国道16号線沿いをみたび歩いて見たくなったこともある。海沿いの明るい道である。
 最初は確か5~6年前だったろうか、浦賀駅から観音崎を通って金沢八景駅まで歩いた。その次にはJR横須賀駅から浦賀駅まで反対方向を歩いた。今回は浦賀駅から観音崎・横須賀美術館を経由して汐入駅辺りまでを考えてみた。



「江戸時代かながわの旅-「道中記」の世界-」展

2013年05月05日 21時01分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 本日は神奈川県立歴史博物館に出かけた。「江戸時代かながわの旅-「道中記」の世界-」展が目当て。
 日本橋から大磯まで、旧東海道に沿ってこの2~3年にわたって幾度も歩いた。その足跡が旧東海道の賑わいの中ではどのような感じなのか、見てみたかった。江戸時代、多くの旅人が行き来した旧東海道や大山道、そして幕末期黒船の来航で着目された浦賀から江戸城までの道がどのように繁栄していたか知りたかった。
 広重(初代)の東海道53次の絵などもふんだんに展示され、なかなか面白い企画であった。東海道中膝栗毛が有名だが、これに先行する滑稽本なども展示されていた。
 私の歩いた道中の当時の雰囲気を示す資料や、自分の住むあたりの宿駅の様子など歩きながら往時をしのぶよすがとなる展示はとても面白い。


東京国立博物館「新指定国宝・重要文化財」展

2013年05月04日 21時16分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日上野の東京国立博物館の「新指定国宝・重要文化財」展を見てきた。根津美術館も行く予定だったが、この展覧会を見終わったのが16時過ぎだったので本日は諦めた。またの機会にすることにした。

 上野駅を降りるとものすごい人波にびっくり。駅員が公園口の改札口に大勢出て、案内におおわらわであった。これはどうしようかと思ったが、ほとんどの人は動物園に吸い込まれていった。科学博物館と国立博物館に行く道ではとても少なくなった。西洋美術館もそれほどの人出ではなかった。
 国立博物館、平常展示はやはりいつもよりは人は多いが、特に気になるほどではなかった。いつもより多いのは外国人とくに欧米からと思われる観光客と、子連れの家族連れ。私も国内旅行でも、韓国やベトナムに行ったときも、必ずその土地の博物館・歴史資料館・美術館を訪れるようにしている。私はそれがその土地・国の文化・歴史への敬意の表し方だと思っている。子供を連れて来るというのも私にはいい教育だと感じる。今回騒ぐ子供もいなくてとてもよかった。

   

 さて今年度の国宝指定の目玉は「木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像」(快慶、文殊院蔵) と3体の「木造阿弥陀如来坐像」「木造不動明王及び二童子立像」「木造毘沙門天立像」(運慶、願成就院蔵)。
 特に快慶の像は残念ながら写真展示で大きさも細部もわからないのだが、動きがいい。幾度が雑誌か何かで見たような気がするが、確実な記憶ではない。しかしこれは是非実物を見たい。運慶の作品では「不動明王及び二童子立像」が気に入った。背の光背も多分当時のものと思うが、像の表情と光背の関係がとてもいい。憤怒の相と、目くるめくような炎の形象が見る人に迫ってくる。圧倒される。
 そしてこの不動明王の脇侍のとりすましたような顔が、不動明王と光背を見た人には対照的な静かな世界を暗示させるように立っている。三体でひとつの動的な宇宙を垣間見るようで面白かった。また衣服の形象がとても自然だ。慶派の特徴でもあると聞いたことがあるが、衣服の線とくに衣紋が美しいと思う。
 運慶といい快慶といい、このような完成された作品が今頃に国宝指定というのも不思議な気がした。
 もうひとつ、福島の長福寺というお寺の「木造地蔵菩薩坐像」。地蔵菩薩の坐像というのにまず私は珍しいと思ったが、今回の東日本大震災で被災して修復のための修理中に鎌倉時代の「元亨四年」の銘が見つかったとのこと。何が原因で由緒いわれが確定するがわからないものがある。
 さらに彫刻の部で「木造摩多羅神坐像」(覚清、鎌倉時代、清水寺)というのがあった。摩多羅神というのは初めて聞く名で、日本の神像ではなく、仏教とともに伝来したインド由来の神なのかと思われるが、これはこれから調べてみることにする。なかなか不思議な表情でどのように表現していいかわからない。

 絵画作品で見落としてはいけないのが長谷川等伯の「紙本墨画老松図襖貼付」と「紙本墨画猿猴捉月図襖貼付」(桃山時代、泉涌寺)。残念ながら写真での展示だった。後者は有名なのでこれも「今頃ようやく」という思いがする。「老松図」ははじめてみたような気がするのだが、なかなか面白い。
 狩野探幽の「紙本金地着色四季松図 六曲屏風」(江戸時代、大徳寺)は二本の松だけだったが、壮年期の松と老松と思しき松が左右に一本ずつ描かれている。
 壮年期の松の幹と葉には雪が積もっていてそれが松の盛んな生命力を演出している。枝に対する葉の割合も多い。老松には赤く染まった蔦が太い幹全体にからまり年季を思わせる。一木に対する葉の割合が心なしか少ない。幹の高さも低め。人間の老境をも感じさせる。幹の写生と葉の緑の対比、老壮の対比、雪と蔦の対比、ここら辺が見所。
 土佐光吉の「紙本金地著色源氏物語図」はとにかく細部まで丁寧に描かれている。美しい彩色だけでなく、色の配置、構図のとり方など西洋美術にはない描き方や、細部までの驚くべきこだわりに驚いた。ことに緑色が美しく感じた。実際は読めないのだが、流麗なかな文字の美しさに見入った。

 展示期間が極端に短いのはとても残念。普段はなかなか人の眼に触れることは少ないので、多くの人の眼に触れてもらうには、いろいろな制約はあるだろうが、もう少し長めの展示であって欲しい。
 今回の指定されたものの一覧表は用意をされていたが、できれば図録までとはいわないが解説の一覧なども欲しい。実費程度の負担は揶揄無を得ないと思う。
 贅沢を言えばキリがないが、写真も撮影できないのだから、A4で数ページのパンフなどがあればさらにうれしい。


「快特」‥不思議な言葉

2013年05月04日 12時09分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日千葉市まで出かけたが、横浜からは品川まで京浜急行を使ったほうが少し安いとのことであった。また「快特」の時刻もちょうどよい具合だったので品川でJR総武線直行の横須賀線に乗り換えた。乗り換えの移動時間も短いのだが、接続は10分ほども待つことになった。
 帰りは、品川で乗り換えるのも面倒になり、そのままJRで横浜駅までたどり着いた。横浜駅ではすでに19時を回ってしまっていた。夕食時間に間に合わないのではないかと思い、タクシーで帰る旨を自宅に電話するとそれはもったいないとのご託宣。やむなく地下鉄利用で帰宅した。
 家ではインコの餌やりで苦闘していた。インコを手で包んでスプーンでやっているのだが、これがインコにはもう苦痛になってきたらしい。スプーンも嫌がるようになってきた。そして集中してたべなくなった。そろそろ自分で食べるような環境にしていかなければならないようだ。
 また横浜は終日晴れていたようだが、千葉市内は雲が多かった。夕方には雲はなくなったが風が冷たかった。横浜と千葉の天候と気温の差がずいぶんあるなと感じた。

 さて、京急に乗ったのだが、私はどうも私鉄で当然のように使われる「快特」という変な言葉が性に合わない。「快速特急」の略語がいつの間にか「快特」として通用させられたのだろうが、もともと「快速特急」というの言葉自体が不思議な言葉である。もとをたどれば「快速特別急行」という長ったらしい名称になる。
 急行と快速、快速と特急とどちらが早いのか、という戸惑いは昔からあった。私の理解では、昔国鉄だった頃、急行と特急はそれぞれ急行券、特急券が別途購入の必要があった。もうひとつ準急というものもあったが、この準急と快速は普通乗車券だけで乗車できていた。快速は近郊の通勤電車での名称だったようだが、これは自信はない。まず私の言葉の理解の前提はこれだ。それを私鉄も踏襲していたかのように思っている。もっといえば「特急」だって「特別急行」の略である。
 ところが私鉄でいつの間にか快速が急行や特急より止まる駅が少ない電車の呼称となり、さらに「特別快速」「快速特急」なるものが生じてきた。こうなるともう準急・急行・通勤特急・特急・通勤快速・快速・特別快速・快速特急とそれぞれの会社線によってゴチャゴチャになってきた。どれが止まる駅が少ないのか、早く遠くまで行くのか、乗車券だけで乗車できるのか否か、会社線に載るたびに時刻表と路線図をじっくりと見なくてはわからなくなってきた。少なくとも私にはそう思われた。全国の私鉄に統一名称を強要するのはもっといけない言語統制であるからこそ、私鉄の経営陣には呼称制定に慎重になってほしいと思う。
 残念ながら「快速特別」「特別快速」の時刻表表記での略称「快特」「特快」が 正式な呼び名になってきた。言葉というのはそもそもそのように変化するものではあるが、この形容矛盾というか形容過多というか不思議な呼称の正式な採用に当たって、会社の経営陣は言葉の専門家に諮問したのであろうか。日本ではどうもこのような習慣はないようだ。今でもないから、過剰敬語が氾濫し、それが当たり前のようになっている。もう一度、準急・急行・特別急行・快速などという言葉に戻って考え直したほうがよいのではないだろうか。特急という言葉はある程度馴染んでいるということについては私も否定しない。
 「快特」「特快」も略称として利用者が使ったり、時刻表の略式表記なら私も了解できないことはない。四字熟語は日本語には長すぎるので、短く省略するというのは一般的な傾向として定着している。しかし正式名称として鉄道会社が当然のように使う段階ではまだ無いと思う。
 JRでは、私の聞き間違いかもしれないのだが、車内アナウンスでは特急を「特別急行」といっているようだ。社内規定では多分まだ「特別急行」なのかも知れない。私はこれについては好ましい事態と感じている。
 今では使われなくなった新幹線の「超特急」という言葉も不思議な言葉であった。そして国鉄末期の「E電」なる造語。あの当時の国鉄経営陣の言葉のセンスのなさはあまりにひどかったその証左であろう。しかし日本の保守政治家、保守政治家を支える経営者達の言葉に対するあまりの無神経ぶり、センスの無さは特筆すべきものがあるのではないだろうか。本来ならば保守政治家こそが「伝統文化」への繊細な理解があってしかるべきなのだが、日本ではその正反対らしい。

 むかし横浜市でも細郷市長が就任してしばらくして「殿」という言葉は冷たい感じがするというので公文書は「横浜市長殿」ではなく「横浜市長様」としろということになった。その昔「拝啓天皇陛下様」という喜劇映画があったが、ここではこの喜劇性を表す言葉として「陛下様」という変てこな敬語を使ったのである。だから「市長様」というのは言い方としては大変失礼な言葉遣いなのだが、これがこの市長はわからないようだった。そして市の総務局長から早速依命通達があり、全市「市長様」となった。そればかりではなく、対外的な発送文書も、また許可文書も「社長様」となってしまった。国語の正しい言葉遣いに対するチェックがまるで行われなかったことに私は驚いた。
 本来は「横浜市長」「○○社社長」でいいはずである。あるいは「市長殿」でも許容範囲であったはずだ。「様」を使う場合は個人名のあとにつけるものだから、「横浜市長細郷道一様」「○○社代表取締役社長△△◎◎様」なら理解できたのだが‥。
 まだ若かった私はこの意見を表明する場面もなく、最初は私の語感がおかしいのかと疑問に思った。また不思議だったのは、当時の幹部特に事務職のトップがどうしてこんなに言葉に鈍感なのかと不思議だった。議会の議員もだれも疑問を呈さなかった。学校の教員からも、また教育委員会からも国語の専門家としての立場からの異論もなかった。だから今はどうなっているか知らないが当時「○○学校長様」という学校では教えないはずの表現が庁内文書として流通していた。
 未だこの習慣は続いているとおもう。私は現役当時自分のつくる文書では、定型で出す文書で変えられないものの外は、極力可能な限り「社長様」のような宛名書きは避けてきた。そんなことをしているうちに、うろ覚えなのだが機関委任事務で市長が管理者になっている場合と、本来市長が管理者である場合では、表記の仕方が違うということをいわれた。どちらがどちらだかもう忘れてしまったのだが、申請書など(たとえば下水道管理者である横浜市長から、道路管理者である横浜市長に出す申請書など)「横浜市長」宛の表記と、「横浜市長○○△△様」との表記を使い分けしなくてはいけないのだという。しかし業務がシステム化してしまってからはこのようなことを考えることもなくなり、すべてシステム任せとなってしまった。上司の誰もがそのようなことは特に目くじらを立てることは最近はなくなってきた。

 中田宏市長のとき「総務局・市民局‥などは意味がわかりにくい。市民に何の仕事をしているのかわかりにくいので局名を変えろ」となった。そして考え出されたのが「市民活力推進局」「行政運営調整局」‥なる長たらしいそれこそ訳のわからない局名であった。これなども議会も含めてだれも文句をいわなかった。かえって提灯持ちのヨイショ発言などをするとんでも議員まで現れる始末。当の市長本人は大層ご満悦でこの長ったらしい局名を「「市活局」「調整局」などのように短く略して呼ぶことはまかりならない」と宣言する始末であった。
 もともと市民の活動や実践の力を後押しをするためのそれこそ市民活力を活用するための部所が市民局と言う名称になったのである。逆に「市民活力推進」という言葉は「お上」が市民の力を引き出すという意味合いになる。市民にとても失礼な語感を持つということがわからない市長とその取り巻きであった。総務という言葉も社会に定着している。
 しかし内部では多くの幹部職員は、こんな言葉への強制は従わなかったようだ。中田市長の時代に特有な「面従腹背の市役所」が現出した。中田市長はあたかももともと横浜市役所の体質が「面従服背」と公言してはばからなかったが、自らが蒔いた種であることが理解できないでいた。まるでスターリン時代・毛沢東時代のソ連・中国のような言葉・言語に対する政治姿勢であった。とても怖ろしい政治家であると私は直感した。
 中田宏が150周年のイベントの赤字と、構造的財政赤字の始末のつけ方がわからなくなって逃げ出すように辞任し、庁内の空気が極めて柔らかくなった。「のびのびと意見を出し合い、いい議論が出来るように早くなるといいが‥」とぽつんと私の昔の上司で当時はトップの一人となっていたある幹部が言った言葉が忘れられない。組合の役員であった私とは時々庁内で顔を合わせると挨拶をしていた方で、何となくウマがあうという感じの先輩であった。

 一般的に正しい言葉使いや歴史的な必然で生れた言葉にはそれぞれの歴史がある。(「正しい」にはいろいろな議論があることは承知をしているがとりあえずここでは「一般的に流通を許されている語」としておこう)。また時間によって洗練されて意味が豊富化されるものがある。それらはとりあえずまず尊重しなければならない。若者言葉の流行り廃れが激しいのは言葉遣いに無理があり、角があり、言葉に柔らかさと他者への配慮がないからである。これを無闇に自分の言葉であるかのように使用する愚行はみっともない。
 言葉を政治や組織の責任者が他者へ使用を強制することは許されることではない。「快特」などや「様」の使用、「四字熟語」の使用の流通のしづらさなど、言葉を社会に発信する立場の人は、言葉に対する配慮、豊かな言葉への感性、そして小中学校で教わる最低限の表現方法をいつも考えていたいものだ。

「仏像半島」展感想(その1)

2013年05月03日 23時38分18秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 予定を変えて本日千葉市美術館を訪れた。ジョギングをした後、チョッと遅くなってしまったが13時に家を出て、JR千葉駅に着いたのが15時15分。美術館には15時半に着いた。初めて訪れたが、千葉市中央区役所の7階・8階に美術館が併設されている。その立派で大きな建物の造作に驚いた。ある意味では威圧するような感じを受けないではないが、周囲の現代的な大きなビルの様からはそれほどの圧迫感はない。逆に親しみが湧くという言い方も成立するかもしれない。
 案内によると1927(S2)年建築家矢部又吉の設計で川崎銀行千葉支店として建てられたネオ・ルネッサンス様式、千葉市指定有形文化財となっている歴史的建造物とのことである。美術館・中央区役所の建設にあたり、詳しくはわからないが”鞘堂方式”により保存・再生され「さや堂ホール」といわれているらしい。

         



 本日の目当ては、「仏像半島」と題された房総半島各地のお寺の仏像の展示。白鳳仏の薬師如来坐像から鎌倉時代までの仏像、ならびに房総は日蓮以来、日蓮宗の地でもあり、ゆかりの絵画・像も展示されている。同時に江戸時代の仏教関連の木彫のほか、芝の増上寺の五百羅漢(2011.4.29、同5.1、同5.11の記事参照)で有名な狩野一信の十六羅漢図も展示されている。
 15時半から1時間くらいの鑑賞時間を想定していたが、17時15分過ぎまで2時間近くかかってしまった。混雑もそれほどではなく、苦にはならなかった。それでもこれだけの時間がかかったのは、それだけ充実した展示だったと思う。じっくりと見てまわった。あと1時間くらいは欲しかったと思う。



まず会場に入って見るのが龍角寺の「薬師如来坐像」で飛鳥時代後期(7C後半~8C初頭)の銅製坐像。金色に輝く坐像は東京の深大寺の釈迦如来椅像と並んで東国最古の仏像とのことである。頭部のみが白鳳時代のもので首から下や光背は後世のものらしいが、顔は大変温和でゆったりとした表情である。



 次に印象に残ったのが、この異様に薄い胴体を持つ9世紀の薬師如来立像(小松寺)。正面から見ると横幅もあり、堂々としたふくよかな体躯に見えるが、側面からはこのように細身だ。ところが頭は通常の厚みがある。一木作りであるが、手の位置などからは胴体をこんなに細く造作する必要性は感じられない。どうしてこのように細身になったのかは解説にもないので想像するしかないが、どうもわからない。材料の木に何らかの問題があったとしか思えない。
 胴体から指先にいたる流れなどは自然である。腰は妙に前に出ていて、なまめかしい線にも見える。9Cというこの時期、すでに中国や朝鮮半島での像の真似事ではなく、材料などの制約を克服するように応用を利かせた仏像を作成していたと解釈してよいのだろうか。
 表情も奈良や京都の古い仏像に較べると様式化されていない不思議な生々しさがあるように見受けられる。解説でもそのことを指摘してある。顔全体がうつむき加減で下を見ている。ほほえましくもあり、印象に残る作品だと思う。
 さて、展示されている各寺の本尊などを見ると薬師如来が多い。図録による解説でも記しているが房総半島は関東の他の地域に較べて薬師如来の比率が高いという。薬師信仰が平安時代に早くからこの房総に根を下ろした歴史があるらしい。
 もうひとつ、私の気になったのはこの如来や諸菩薩の表情だ。仏像の表情が奈良・京都の仏像のように様式化され完成され整った顔のものもあるが、生の人間味ある表情の仏像もあり、とても親しみが湧くものも多い。



 これもそのひとつ。とても福々しい薬師如来立像だ。12C平安時代末期の小松寺のもの。奈良や京都の寺で見るものは、私の偏見でなければやはり鎮護国家の仏教であるのだろうか、この房総の仏像の表情に較べると庶民とはかけ離れたところにいるような感じがする。この房総の仏像の顔は、どこか身近な感じだ。文化の中心地からは遠い東国の果てで、土着の中で生きているような仏像に感ずる。

 鎌倉時代以降の仏像の感想は次回以降に掲載予定。

連休後半、悩ましい

2013年05月02日 22時20分41秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は後楽園駅の傍で句会があり参加した。句会のあとは参加者で軽く交流会で楽しい時間を過ごさせてもらった。
 俳句はまだまだこの二年来の不調が続いて思うような句も出来ない中で、図々しく句会に参加している。自分でも歯がゆい思いがつのる

 句会場の行き帰りに東京駅を利用したが、連休後半の帰省客で構内は人出がすごい。家族連れも多いがかなり高齢の方の一人旅も目についた。それも荷物をそれなりにもって小奇麗な格好をしている。仕事についている歳とは思えない。帰省ではなく、子供などのいる遠くに逆に出向こうとしているのだろうか。そうであるならば連休での「帰省」のイメージも大きく変わってきているということなのだろうか。親元に顔を出すのではなく、親が息子・娘に会いに行く時代になってきたのだろうか。これはお盆の帰省についても同様のことが言えている。
 私はもともと帰る故郷はない。妻も帰るべき実家も無くなった。逆に私の家が子供の帰ってくるべき家になっているが、ごく近くなので帰省というほどの遠さではない。
 都市に人口が集中しつくして、過疎が問題になっているが、帰省する故郷も家族ももう解体されつくしているのだろうと考えてみた。「核家族」も最小の構成員にまで縮小している。いや核家族も解体の危機にある。母子家庭・父子家庭の割合が増え、家庭を持つことを拒否する単身者が増加しているという。親子3人の最小限といわれた家族すら、親子2人に解体した上でさらに、家族を作らないという選択肢が当然となってきた社会が現出しているのであろうか。社会の将来像も大きくゆらいでいる。

 明日は、東京国立博物館と根津美術館を訪れようかと考えている。
 東京国立博物館の目当ては、「平成25年 新指定 国宝・重要文化財」展。これが5月6日までということなのでたとえ混雑が予想されても連休中に訪れるしかない。根津美術館は昨年もこの時期に訪れたが、今年も国宝「燕子花図屏風」(尾形光琳)と同時に鈴木其一の「夏秋渓流図屏風」も再度展示されていて是非見たい。そして庭園の燕子花も見事であるとのこと。ともに何度でもながめていたい。ともに混雑していないことを願うのみ。

 また、本日得た情報では、千葉市美術館で「仏像半島―房総の美しき仏たち―」という展覧会が行われているという。会期は6月16日まで。「房総半島各地から選りすぐられた仏像約150体。関東の白鳳仏としてきわめて重要な龍角寺の薬師如来坐像に始まり、平安前期の森厳な作例を経て、定朝様や鎌倉様式を受容してゆく流れを追う」という説明がなされている。なかなかそそられる。これも連休明けは各種講座の予定もあるので、連休中に行ってみたいと考えている。


5月初日

2013年05月01日 21時54分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今日から早5月となった。
 一昨日に痛くなった左足のふくろはぎはほとんど痛みがなくなった。しかし用心にこした事はないので、本日も昨日に引き続き1万歩程度で押えることにした。

 4日目になるセキセイインコの「ナオ」、おとなしいようでいてなかなか元気がいい。私ども夫婦の姿をすっかり覚えた。私どもの姿を見ると篭の中で盛んにアピールをする。遊んで貰いたいようだ。羽ばたきもすっかり力強くなり、本日は2メートルほど飛んで平然としている。飛び方に力強さはまだないのだが、らくらくと飛んでいる。
 以前からいるインコとは正反対の性格で、温もりを求めてさかんに人のもとに来たがる。何時間でも人にまとわりついている。わたしの上着の大きなポケットがお気に入りになったようで、そこに入るとすっかり落ち着いて動かなくなる。新聞紙を敷いた小さな鳥篭にはもどりたがらない。
 鳥篭に戻した瞬間は篭からの脱出を求めてしきりに篭の中で動き回り、扉に身を寄せてくる。かなり頭も良さそうだ。扉はしっかり押えておかないとその内には一人で開けてしまいかねない。
 この4日間、すっかりセキセイインコの雛に振り回された感じもする。餌も一人で食べようとするほど貪欲である。ただし餌をねだる時間、人に甘えたがる時間を除けばいたっておとなしい。

 さて、昨日治った携帯電話の電話帳機能。本日試験的にいくつかのメールを発着信してみたが、いづれもうまくいった。しかしアプリとの相性が悪くそれが原因で不具合により、基本機能のひとつだけが作動しなくなるというのは、私にはよくわからない。
 実は昔、自分のパソコンのメールの具合を確かめるためには自分宛にメールを発信すればいいと教わった。それでも十分であることはわかるが、無料のフリーメール、ウェブメールを利用するとさらに便利だといわれ、それ以来いくつかのメールアドレスを取得して使い分けをしている。
 仕事・組合用、中高の友人・同窓会用、大学時代の友人との連絡用、物などの購入用、美術館・博物館などからのメルマガ用、気のおけない友人用‥。しかしいくつかのフリーメールはサービスが終了になってしまったり、他のフリーメールに統合されたりした。
 利点はリスクの分散と携帯電話・スマートフォンや出先での利用が可能なこと。これは大いに便利だ。不便な点はアドレスの分散管理と、ID・パスワード管理の煩わしさ。アドレスの分散管理については一番使い易いアドレス帳機能のフリーメールに全体を統一することで克服した。ID・パスワード管理の煩わしさは、リスク分散との関係からはやむを得ないものでもある。
 しかし今回の事態で、全体アドレスの管理をひとつのフリーメールに依存していてはまずそうなので、もうひとつ全体管理のアドレス帳を増やした方が良さそうだということがわかった。リスク分散との兼ね合い、ならびに労力の煩雑さから考えると痛し痒しといったところ。携帯電話のアドレス機能は使いやすいのだが、これにすべてを集中すると紛失の場合のリスクが極めて怖い。
 おいおい分散と集中の兼ね合いを計りながらよい方法を見つけていくしかないようだ。

 この3ヶ月ほど、このブログの閲覧数・訪問者数が急に多くなった。以前は一日あたりの訪問者数が多くても140位だったのが、平均して170~180位に増え200を越える日も幾日かあった。閲覧数も300台前半から500から600台に跳ね上がっている。ランキングが12000位前後だったのが今は6000位くらいに、時々5000位以内に跳ね上がっている。トータル訪問者も14万に近づき、トータル閲覧数も35万を越えた。
 訪問してくれた方、読者に心から感謝する次第である。
 読者が大勢いるのはうれしい限りだが、同時にまったく想定していない読者も多数いるというのが、緊張をもたらす。何を記載し、何を書かないか、この取捨選択もなかなかに厳しい。
 このブログ、あくまでも私の個人の思いを出発点にしているので、ここだけははずさずに続けていきたい。
 今後ともご愛読お願いします。