朝起きたときから特にたいしたことでもないことに追われて、慌ただしく振り回された。慌ただしい中で、団地の中にある池の水の浄化のために、小さな噴水を動かしている。朝日に照らされた虹色に輝くことに気がついた。池の周りを歩いているとわずか3~5歩の間だけ虹のように輝く場所を見つけた。日が高くなるとなくなるのであろう。初めて気がついた。携帯電話も持っていなかったので、撮影は出来なかったのが残念であった。
虹も噴水も夏の季語ではある。虹が夏の季語であるのは、夕立のあとに大きな虹が表れやすいということから。そして音のない世界でもある。噴水も涼感を得るための装置だったということから夏の季語とされたのだろう。噴水は一年中動き、それにともなって小さな身近な虹がずっと見られる。この場合の虹は噴水の音とは切り離すことはできない。両者ともに季感とは離れてきている。言葉に張り付いた季節の感情が薄れてきているし、付随する音についても変化している。このふたつにかぎらず季語そのものの意味も時代とともに変化している。強いては俳句そのものも岐路に立っている。
★いづくにも虹のかけらを拾ひ得ず 山口誓子
★噴水のしぶけり四方に風の街 石田波郷
2句とも「夏」のイメージがちょっと希薄に思えるものを選んでみた。2句目が夏の印象が希薄というのは無理があるかもしれないが‥。「風」をどのようなものとして感じるかだと思う。
虹も噴水も夏の季語ではある。虹が夏の季語であるのは、夕立のあとに大きな虹が表れやすいということから。そして音のない世界でもある。噴水も涼感を得るための装置だったということから夏の季語とされたのだろう。噴水は一年中動き、それにともなって小さな身近な虹がずっと見られる。この場合の虹は噴水の音とは切り離すことはできない。両者ともに季感とは離れてきている。言葉に張り付いた季節の感情が薄れてきているし、付随する音についても変化している。このふたつにかぎらず季語そのものの意味も時代とともに変化している。強いては俳句そのものも岐路に立っている。
★いづくにも虹のかけらを拾ひ得ず 山口誓子
★噴水のしぶけり四方に風の街 石田波郷
2句とも「夏」のイメージがちょっと希薄に思えるものを選んでみた。2句目が夏の印象が希薄というのは無理があるかもしれないが‥。「風」をどのようなものとして感じるかだと思う。