Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

長崎市長の平和宣言

2018年08月09日 12時37分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年田上長崎市長が読み上げた長崎平和宣言は以下のとおり。

 73年前の今日、8月9日午前11時2分。真夏の空にさく裂した一発の原子爆弾により、長崎の街は無残な姿に変わり果てました。人も動物も草も木も、生きとし生けるものすべてが焼き尽くされ、廃墟と化した街にはおびただしい数の死体が散乱し、川には水を求めて力尽きたたくさんの死体が浮き沈みしながら河口にまで達しました。15 万人が死傷し、なんとか生き延びた人々も心と体に深い傷を負い、今も放射線の後障害に苦しみ続けています。
 原爆は、人間が人間らしく生きる尊厳を容赦なく奪い去る残酷な兵器なのです。
1946年、創設されたばかりの国際連合は、核兵器など大量破壊兵器の廃絶を国連総会決議第1号としました。同じ年に公布された日本国憲法は、平和主義を揺るぎない柱の一つに据えました。広島・長崎が体験した原爆の惨禍とそれをもたらした戦争を、二度と繰り返さないという強い決意を示し、その実現を未来に託したのです。
 昨年、この決意を実現しようと訴え続けた国々と被爆者をはじめとする多くの人々の努力が実り、国連で核兵器禁止条約が採択されました。そして、条約の採択に大きな貢献をした核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞しました。この二つの出来事は、地球上の多くの人々が、核兵器のない世界の実現を求め続けている証です。
 しかし、第二次世界大戦終結から73年がたった今も、世界には14,450発の核弾頭が存
在しています。しかも、核兵器は必要だと平然と主張し、核兵器を使って軍事力を強化しようとする動きが再び強まっていることに、被爆地は強い懸念を持っています。
核兵器を持つ国々と核の傘に依存している国々のリーダーに訴えます。国連総会決議第1号で核兵器の廃絶を目標とした決意を忘れないでください。そして50年前に核不拡散条約(NPT)で交わした「核軍縮に誠実に取り組む」という世界との約束を果たしてください。人類がもう一度被爆者を生む過ちを犯してしまう前に、核兵器に頼らない安全保障政策に転換することを強く求めます。
 そして世界の皆さん、核兵器禁止条約が一日も早く発効するよう、自分の国の政府と国会に条約の署名と批准を求めてください。
 日本政府は、核兵器禁止条約に署名しない立場をとっています。それに対して今、300を超える地方議会が条約の署名と批准を求める声を上げています。日本政府には、唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約に賛同し、世界を非核化に導く道義的責任を果たすことを求めます。
 今、朝鮮半島では非核化と平和に向けた新しい動きが生まれつつあります。南北首脳による「板門店宣言」や初めての米朝首脳会談を起点として、粘り強い外交によって、後戻りすることのない非核化が実現することを、被爆地は大きな期待を持って見守っています。
 日本政府には、この絶好の機会を生かし、日本と朝鮮半島全体を非核化する「北東アジア
非核兵器地帯」の実現に向けた努力を求めます。
 長崎の核兵器廃絶運動を長年牽引してきた二人の被爆者が、昨年、相次いで亡くなりました。その一人の土山秀夫さんは、核兵器に頼ろうとする国々のリーダーに対し、こう述べています。「あなた方が核兵器を所有し、またこれから保有しようとすることは、何の自慢にもならない。それどころか恥ずべき人道に対する犯罪の加担者となりかねないことを知るべきである」。もう一人の被爆者、谷口稜曄さんはこう述べました。「核兵器と人類は共存できないのです。こんな苦しみは、もう私たちだけでたくさんです。人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません」。
 二人は、戦争や被爆の体験がない人たちが道を間違えてしまうことを強く心配していました。二人がいなくなった今、改めて「戦争をしない」という日本国憲法に込められた思いを次世代に引き継がなければならないと思います。
 平和な世界の実現に向けて、私たち一人ひとりに出来ることはたくさんあります。
 被爆地を訪れ、核兵器の怖さと歴史を知ることはその一つです。自分のまちの戦争体験を聴くことも大切なことです。体験は共有できなくても、平和への思いは共有できます。
 長崎で生まれた核兵器廃絶一万人署名活動は、高校生たちの発案で始まりました。若い世代の発想と行動力は新しい活動を生み出す力を持っています。
 折り鶴を折って被爆地に送り続けている人もいます。文化や風習の異なる国の人たちと交流することで、相互理解を深めることも平和につながります。自分の好きな音楽やスポーツを通して平和への思いを表現することもできます。市民社会こそ平和を生む基盤です。
 「戦争の文化」ではなく「平和の文化」を、市民社会の力で世界中に広げていきましょう。
 東日本大震災の原発事故から7年が経過した今も、放射線の影響は福島の皆さんを苦しめ続けています。長崎は、復興に向け努力されている福島の皆さんを引き続き応援していきます。
 被爆者の平均年齢は82歳を超えました。日本政府には、今なお原爆の後障害に苦しむ被爆者のさらなる援護の充実とともに、今も被爆者と認定されていない「被爆体験者」の一日も早い救済を求めます。
 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界と恒久平和の実現のため、世界の皆さんとともに力を尽くし続けることをここに宣言します。

  2018年(平成30年)8月9日             長崎市長 田上 富久



再掲 「沖縄慰霊の日」の平和宣言

2018年08月09日 10時14分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年6月23日、「沖縄慰霊の日」で故翁長雄志氏の発した平和宣言を全文再掲載して追悼にかえたい。

 二十数万人余の尊い命を奪い去った地上戦が繰り広げられてから、73年目となる6月23日を迎えました。
 私たちは、この悲惨な体験から戦争の愚かさ、命の尊さという教訓を学び、平和を希求する「沖縄のこころ」を大事に今日を生きています。
 戦後焼け野が原となった沖縄で、私たちはこの「沖縄のこころ」をよりどころとして、復興と発展の道を力強く歩んできました。
 しかしながら、戦後実に73年を経た現在においても、日本の国土面積の約0.6%にすぎないこの沖縄に、米軍専用施設面積の約70.3%が存在し続けており、県民は、広大な米軍基地から派生する事件・事故、騒音をはじめとする環境問題等に苦しみ、悩まされ続けています。
 昨今、東アジアをめぐる安全保障環境は、大きく変化しており、先日の、米朝首脳会談においても、朝鮮半島の非核化への取り組みや平和体制の構築について共同声明が発表されるなど緊張緩和に向けた動きがはじまっています。
 平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのでしょうか。日米両政府は現行計画を見直すべきではないでしょうか。民意を顧みず工事が進められている辺野古新基地建設については、沖縄の基地負担軽減に逆行しているばかりではなく、アジアの緊張緩和の流れにも逆行していると言わざるを得ず、全く容認できるものではありません。「辺野古に新基地を造らせない」という私の決意は県民とともにあり、これからもみじんも揺らぐことはありません。
 これまで、歴代の沖縄県知事が何度も訴えてきたとおり、沖縄の米軍基地問題は、日本全体の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべきものであります。国民の皆様には、沖縄の基地の現状や日米安全保障体制の在り方について、真摯に考えていただきたいと願っています。
 東アジアでの対話の進展の一方で、依然として世界では、地域紛争やテロなどにより、人権侵害、難民、飢餓、貧困などの多くの問題が山積しています。
 世界中の人々が、民族や宗教、そして価値観の違いを乗り越えて、強い意志で平和を求め協力して取り組んでいかなければなりません。
 かつて沖縄は「万国津梁」の精神の下、アジアの国々との交易や交流を通し、平和的共存共栄の時代を歩んできた歴史があります。
 そして、現在の沖縄は、アジアのダイナミズムを取り込むことによって、再び、アジアの国々を絆ぐことができる素地ができてきており、日本とアジアの架橋としての役割を担うことが期待されています。
 その期待に応えられるよう、私たち沖縄県民は、アジア地域の発展と平和の実現に向け、沖縄が誇るソフトパワーなどの強みを発揮していくとともに、沖縄戦の悲惨な実相や教訓を正しく次世代に伝えていくことで、一層、国際社会に貢献する役割を果たしていかなければなりません。
 本日、慰霊の日に当たり、犠牲になられた全ての御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、恒久平和を希求する「沖縄のこころ」を世界に伝え、未来を担う子や孫が心を穏やかに笑顔で暮らせる「平和で誇りある豊かな沖縄」を築くため、全力で取り組んでいく決意をここに宣言します。




本日は長崎忌

2018年08月09日 10時04分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 一昨日の体調不良は、昨日から少しずつ回復していると実感できている。昨日は雨・風のなか妻と上野界隈をゆっくりと歩いただけ。夜は再び足を冷やさないようにして早めに就寝。今朝は昨日の朝よりも足は樂。しかしまだ疲労感が残っている。
 おとなしくしていろ、という体の信号かもしれない。

 本日は長崎の原爆記念日。10時半すぎから、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開催される。

★首上げて水光天に長崎忌    五島高資

 水光とは、水面のひかりまたは光っている水、のことをいう。

東博「縄文」展

2018年08月08日 22時27分22秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日横浜市域には、暴風・波浪警報、大雨・洪水・雷注意報が発令されていた。しかしテレビの報道を見ると横浜市域は台風の進路の西側になること、雨の予報がそれほどでもないこと、などから都合よく解釈して(これは本当はまずいことなのだが)、上野の東京国立博物館に出向いた。妻は「誕生日なので上野動物園でパンダも見たい」とのリクエスト。この天気で来場者も少ないだろうという、これもまた勝手な判断をして出かけた。
 東京国立博物館は、小中学生は少なかったものの、かなりの来場者がいた。特に欧米、中国韓国などからの外国人が多かった。彼らは実に熱心に展示物を見ている。あの好奇心に満ちた目は、大いに学ばなくてはいけないと思う。私も訪れた諸外国ではかならず博物館・美術館をハシゴした。やはり相互の歴史と文化は謙虚に学びたいものである。
 すでに目にした縄文土器、しかも国宝もあるが、これだけ一同に会すると、圧巻であると縄文の各時代・各地域ごとの共通点などが何となくわかりやすく感じられる。また同時代のヨーロッパから中国までの土器なども並べられ、比較できたのは試みとして歓迎したい。
 とくに他地域では菊花の形成期である紀元前3000年頃から、列島の縄文時代よりも一気に土器の文様なども高度化し、そして記号-文字の出現まで突き進むように思われた。さらに時代が下るにつれて紋様が消失していく過程も共通しているように思われた。
 土偶については多くの展示があり、はじめて目にするものが多かった。



 至福の90分を過ごしたのち、調度16時に上の動物園に到着。調度入り口を占める間際に飛び込んだ。パンダを見るまでに30分と言われたものの、実際には10分ほどでパンダの杉田を見ることができた。妻は満足。笹を一心に食べているだけで歓声が上がるのは、パンダだけで雨う。

 帰途は上野東京ラインに乗って横浜駅に17時15分到着。通勤ラッシュのように混んでいた。各企業が就業時間を繰り上げたというニュースを聞いて、混雑の原因が理解できた。



 夕食後帰宅して、翁長知事が亡くなったことを知った。残念至極。合唱。


翁長沖縄知事が死去 67歳

2018年08月08日 19時59分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 沖縄タイムスの記事は以下のとおり。

 沖縄県知事の翁長雄志氏が8日午後7時までに、膵臓がんのため入院中の浦添総合病院で死去したことが分かった。67歳だった。米軍普天間飛行場の返還に伴う名護市辺野古への新基地建設への反対を訴え、2014年の県知事選で初当選。新基地建設反対を最後まで貫いた。
 翁長知事は1950年生まれ、那覇市出身。85年に那覇市議に初当選し2期、その後県議を2期、2000年から那覇市長を4期14年務めた。


 私はは、今秋も退職者会の仲間と沖縄に行く予定も立てていた。毎年のように辺野古や普天間基地、嘉手納基地ほか、戦跡を巡る旅を決行していた。
 ニュース映像などではかなり体調が悪そうに見えたが、ここまでとは思わなかった。
 ご冥福をお祈りしたい。

 ツィッターで19時25分には配信されていたが、19時~19時45分まで放送していたNHKニュースでは取り上げ模していなかったし、テロップすら流されていない。

「縄文展」(東博)と動物園にてパンダ

2018年08月08日 17時09分33秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


台風の雨と風のなか、東京国立博物館にて「縄文展」を見てきた。図録も購入。それほどの混雑ではなく、ユックリと観賞。充実の90分であった。
雨は夜までは強くならないと判断。風もなんとかひどくならないうちに横浜駅に戻ることができた。
妻のリクエストで動物園にてパンダも。閉園30分前で空いていた。

秋の気配・・

2018年08月08日 10時04分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝から強い風が吹いている。雨は降ったり止んだりを繰り返している。横浜市域には「強風・雷・波浪注意報」が出ている。各種の予報を見てみると、横浜では雨はそれほど降らないようにも思えるが、油断は禁物。神奈川県内の相模湾沿いは波浪警報が出ている。

 昨日は足が重く、すぐにくたびれてしまっていた。昨晩寝る前に気がついたのは、この暑い一カ月間、いつも寝間着の上着とパンツのみで寝ていた。薄いタオルケットも掛けなかった。気温が少し低めとなった一昨日も同様であった。太ももから先が冷えてしまった可能性がある。いくら暑くとも、寝間着の薄手の半ズボンくらいは身に付け、そしてタオルケットないしバスタオルくらいは掛けて寝た方がよかった。昨晩はそのとおりにして寝た。
 朝になってみると、タオルケットはまだ足にかかっていた。そして足のだるさはとりあえずはなくなっていた。このままの状態が続けばいいのだが‥。

 9時45分現在、外が明るくなってきた。風も弱まっている。蝉の声が大きくなっている。不思議なもので、これまでの酷暑が去ってから聞く蝉の声は、途端に弱々しく、さびしげに聞こえる。鳴いている蝉の数も少なくなったようだ。
 ミンミンゼミとクマゼミは同時に鳴くことはなく、時間的・時期的・地域的な棲み分けをしているというが、私の住む団地ではどうもミンミンゼミばかりのような気がしている。それとも私の耳が、時間的な棲み分けにもかかわらずその違いを聴き分けていないのだろうか。


本日から立秋

2018年08月07日 22時28分07秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 8月7日から22日までが立秋。毎年、広島の原爆の日と長崎の間に立秋が始まる。広島忌は夏の季語で、長崎忌は秋の季語、原爆忌というと夏の季語と昔教わったのだが、夏・秋と厳密に決めつけるのもいかがなものかと思う。台風も基本的には秋の季語だが、夏にも台風は来る。わざわざ夏台風という人もいるようだが、現実の感覚とはかけ離れている。
 そしてちょうど台風13号が伊豆諸島を北上し、関東地方をうかがっている。酷暑の陽の続いた関東地方にとってはとても涼しく感じる日となった。しかし西日本では酷暑が続いている。

★秋立つと酒田の雨を聴くばかり       黒田杏子
★秋立つや川瀬にまじる風の音        飯田蛇笏


 第一句、東北の日本海側の歴史ある町、酒田は8月に最高気温40℃を記録した街であることを考えると、秋を待ち焦がれたような雰囲気がただよってくる。
 本日の関東地方、台風の影響下の雨もまた酷暑を追いやる期待をもって雨音を聴いていることには変わりない。このまま酷暑は遠ざかってほしいものである。
 第二句、古今集の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(藤原敏行)を踏まえた句であると思われるが、短い俳句に仕立て直している。音を川の上を吹きわたる風の音に限定している。「これが手柄」と国語の先生に教わった記憶がある。私は広い河ではなく、沢のような幅の狭いせせらぎ、草々が生い茂り、そのせせらぎの周囲の草を揺らしながら吹いてくる風だと直感した。今でもそのように思っている。
 どうしても情景を細かく細分化して限定したがるのは、私の悪い癖でもあるようだ。


「モネ それからの100年」展&体調不良

2018年08月07日 19時41分57秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 午前中は、ときどき小雨がぱらついたり、風が強めであった。横浜駅近くの県の出先機関に出向いて相談に応じてもらった。

 終了後は、12時を過ぎていたので、横浜駅に向かう途中で「手作りうどん」ののぼり旗に釣られて初めての小さなうどん店に入った。選んだのが「あつもりきのこうどん」。うどんのつめたい盛に、厚めの汁にキノコとナスを炒めたのが入り、とてもおいしかった。うどんには茹キャベツと大根の薄切りが添えられていた。店に乗奈絵付けの辛味噌を少しつけると味も変わり、なかなか良かった。お薦めの店だと思う。ふだんはあまり歩くことのないところだが、すぐ傍の交差点はときどきウォーキングで通りところである。今度また寄ってみることにした。
 横浜駅の地下の喫茶店でひと休み。ひどく疲れて体が重かった。足の筋肉も披露気味。心地よい疲労感ではなく、足をなかなか前に踏み出せない。

   

 喫茶店でボーっとしていたら少し回復したので、みなとみらい駅経由で横浜美術館におもむき「モネそれからの100年展」を鑑賞。モネとモネの影響を受けた画家の作品が展示されており、なかなか興味深い展示であった。夏休み期間中でもあり、美術館内も混雑していたが、広い展示スペースなので特にストレスは感じないで見て回ることができた。しかしやはり足の疲れがあり、桜木町に戻って喫茶店でもう一度ひと休み。

 喫茶店で1時間以上時間をつぶして家の傍の眼科にたどり着いた。視野検査の途中で何故がウトウトとしてしまい、一部大きく視野の欠損が進んだように見えた。眼圧は特に変化はないので、そのウトウトが原因かもしれない、ということで年末に再度視野検査を受けることを前提にこれまでの点眼薬を続けることにしてもらった。

 視野の欠損の疑いよりも、この疲労感の方が少々心配になってきた。ちょうど40年前に急性肝炎で入院したときも10段の階段がのぼれずに手すりにつかまってようやく歩いた記憶がある。その時のことが頭を過った。しかしその時とはちょっと違う感じもする。当時は微熱が続き、食欲がなくなり、ビールを飲むことも出来なくなった。今回は熱はなく、食欲もある。しかしこれよりひどくなるようなら、肝機能の血液検査でもしてもらうことも考えて見ることにした。

 外は小雨だが再び降り始めている。風も強くなってきた。ということで本日は夜のウォーキングは断念、早めに寝ることにした。モネ展の感想は後日。

本日の予定は三つ

2018年08月07日 09時52分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は朝から雨、気温も22℃に届かなかったようだ。湿度が高いのでそれほど涼しいという感じではない。
 これより、横浜駅から歩いて20分ほどのところにある県の出先機関に出向いて、いろいろと相談。午後にはできれば横浜美術館で「モネそれからの100年」展を鑑賞したい。
 夕方には眼科で視野検査と緑内障の点眼薬の処方をしてもらうつもりであるが、そこまで気力と体力が持つだろうか。

「夕凪の街 桜の国2018」(NHK)

2018年08月06日 23時44分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 テレビは美術番組くらいしか普段は見ることはないのだが、本日久しぶりにテレビのドラマを見た。NHKで放映された、特集ドラマ「夕凪(なぎ)の街 桜の国2018」。
 解説では次のように記されていた。
★「この世界の片隅に」で知られる漫画家・こうの史代のベストセラーをドラマ化/原爆に人生を翻弄されながらも、ひたむきに生きる女性、そして現代に生きる一人の女性/60年のときを経て、二人をつなぐ糸とは?/原爆とは、家族とは?/静かに胸にせまる感動の物語/主演:常盤貴子・出演:川栄李奈、橋爪功/核と平和に向き合ってきたNHK広島放送局が開局90年の節目におくる特集ドラマ/この夏、何かを感じたいあなたへ!!
【⇒https://www.nhk.or.jp/hiroshima/drama/index.html

 普段はテレビドラマというのは見ることはない。場面の展開が最近は早すぎることと、つまらない処世訓を垂れるドラマに閉口して30数年以上前に見ることをしなくなった。普段見る照れば番組は美術の特集などと、妻の見るベイスターズの試合のエッセンスにかぎられている。
 今回のドラマの展開は私にはちょうどいい店舗ではあった。そしてあまりドラマチックに大袈裟な演出もなく、落ち着いて見ることはできた。
 難点をいえば、主人公の父、石川旭の若い時の回想で、バラックのようなあばら屋が並ぶ一角の取り潰し、強制撤去の噂に対し、住人が旭の実家に押し掛ける場面がある。この実家に押し寄せる住人の造形が類型的で運動そのものを茶化し、揶揄しているとしか思えないことである。抵抗運動というのはこんなにもいい加減に造形されていいものなのか、首をかしげた。それ以外は場面は、美しい風景と場面にマッチした景色に好感が持てた。
 そして最後の結末、主人公石川七波が結婚を決意する場面で終わるが、「幸せ」がどのような結婚の形態なのかは明確にはなっておらず、曖昧にしてある。原作とは違う人物の結婚譚なのだが、はたしてそれが本当の作者の意図なのか、ふと疑問にも感じた。原作の方がより明確に、現代的なもののようだが‥。
 総じて、「毒がなくなってしまった」といったらいいのだろうか。それは主人公七波の兄の連れ合いとなる女性の回心の物語から、姪の風子の回心と七波本人の回心の物語に変容させたことによるものと思われる。原作者の承認のもとの変容らしいが、これによって甘く、そして毒がなくなってしまったことは否めない。

 再放送もあるようだ。


広島「平和への誓い」(2018年)

2018年08月06日 20時44分37秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年の「平和への誓い」は以下のとおり。

【経緯】被爆50周年(平成7年)の平和記念式典では、広島市長の平和宣言に続いて、初めてこども代表が「平和への誓い」を述べました。これは、「こども平和のつどい」で世界のこどもたちが話し合った結果を平和への決意として述べたもので、翌年以降もこの成果を引き継ぐ「こどもピースサミット」を開催し、「平和への誓い」を発信しています。

※「こども平和のつどい」は、被爆50周年の記念事業として、未来を担うこどもたちが平和への努力を行うために、平成7年7月31日から8月6日まで広島市で開催されたものです。世界の12の国・地域の15都市から194人の小学校5・6年生が参加しました。

~平成30年度「平和への誓い」~

人間は、美しいものをつくることができます。
人々を助け、笑顔にすることができます。
しかし、恐ろしいものをつくってしまうのも人間です。

昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分。
原子爆弾の投下によって、街は焼け、たくさんの命が奪われました。
「助けて。」と、泣き叫びながら倒れている子ども。
「うちの息子はどこ。」と、捜し続けるお父さんやお母さん。
「骨をもいでください。」と頼む人は、皮膚が垂れ下がり、腕の肉が無い姿でした。
広島は、赤と黒だけの世界になったのです。

73年が経ち、私たちに残されたのは、
血がべっとりついた少女のワンピース、焼けた壁に記された伝言。
そして今もなお、遺骨の無いお墓の前で静かに手を合わせる人。
広島に残る遺品に思いを寄せ、今でも苦しみ続ける人々の話に耳を傾け、
今、私たちは、強く平和を願います。

平和とは、自然に笑顔になれること。
平和とは、人も自分も幸せであること。
平和とは、夢や希望をもてる未来があること。

苦しみや憎しみを乗り越え、平和な未来をつくろうと懸命に生きてきた広島の人々。
その平和への思いをつないでいく私たち。
平和をつくることは、難しいことではありません。
私たちは無力ではないのです。
平和への思いを折り鶴に込めて、世界の人々へ届けます。
73年前の事実を、被爆者の思いを、
私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります。

 平成30年(2018年)8月6日
                こども代表 広島市立牛田小学校   6年 新開美織
                      広島市立五日市東小学校 6年 米廣優陽

広島平和宣言(2018年)

2018年08月06日 19時54分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年の広島平和宣言は以下のとおり。

73年前、今日と同じ月曜日の朝。広島には真夏の太陽が照りつけ、いつも通りの一日が始まろうとしていました。皆さん、あなたや大切な家族がそこにいたらと想像しながら聞いてください。8時15分、目もくらむ一瞬の閃光。摂氏100万度を超える火の球からの強烈な放射線と熱線、そして猛烈な爆風。立ち昇ったきのこ雲の下で何の罪もない多くの命が奪われ、街は破壊し尽くされました。「熱いよう!痛いよう!」潰れた家の下から母親に助けを求め叫ぶ子どもの声。「水を、水を下さい!」息絶え絶えの呻き声、唸声。人が焦げる臭気の中、赤い肉をむき出しにして亡霊のごとくさまよう人々。随所で降った黒い雨。脳裏に焼きついた地獄絵図と放射線障害は、生き延びた被爆者の心身を蝕み続け、今なお苦悩の根源となっています。

世界にいまだ1万4千発を超える核兵器がある中、意図的であれ偶発的であれ、核兵器が炸裂したあの日の広島の姿を再現させ、人々を苦難に陥れる可能性が高まっています。

被爆者の訴えは、核兵器の恐ろしさを熟知し、それを手にしたいという誘惑を断ち切るための警鐘です。年々被爆者の数が減少する中、その声に耳を傾けることが一層重要になっています。20歳だった被爆者は「核兵器が使われたなら、生あるもの全て死滅し、美しい地球は廃墟と化すでしょう。世界の指導者は被爆地に集い、その惨状に触れ、核兵器廃絶に向かう道筋だけでもつけてもらいたい。核廃絶ができるような万物の霊長たる人間であってほしい。」と訴え、命を大切にし、地球の破局を避けるため、為政者に対し「理性」と洞察力を持って核兵器廃絶に向かうよう求めています。

昨年、核兵器禁止条約の成立に貢献したICANがノーベル平和賞を受賞し、被爆者の思いが世界に広まりつつあります。その一方で、今世界では自国第一主義が台頭し、核兵器の近代化が進められるなど、各国間に東西冷戦期の緊張関係が再現しかねない状況にあります。

同じく20歳だった別の被爆者は訴えます。「あのような惨事が二度と世界に起こらないことを願う。過去の事だとして忘却や風化させてしまうことがあっては絶対にならない。人類の英知を傾けることで地球が平和に満ちた場所となることを切に願う。」人類は歴史を忘れ、あるいは直視することを止めたとき、再び重大な過ちを犯してしまいます。だからこそ私たちは「ヒロシマ」を「継続」して語り伝えなければなりません。核兵器の廃絶に向けた取組が、各国の為政者の「理性」に基づく行動によって「継続」するようにしなければなりません。

核抑止や核の傘という考え方は、核兵器の破壊力を誇示し、相手国に恐怖を与えることによって世界の秩序を維持しようとするものであり、長期にわたる世界の安全を保障するには、極めて不安定で危険極まりないものです。為政者は、このことを心に刻んだ上で、NPT(核不拡散条約)に義務づけられた核軍縮を誠実に履行し、さらに、核兵器禁止条約を核兵器のない世界への一里塚とするための取組を進めていただきたい。

私たち市民社会は、朝鮮半島の緊張緩和が今後も対話によって平和裏に進むことを心から希望しています。為政者が勇気を持って行動するために、市民社会は多様性を尊重しながら互いに信頼関係を醸成し、核兵器の廃絶を人類共通の価値観にしていかなければなりません。世界の7,600を超える都市で構成する平和首長会議は、そのための環境づくりに力を注ぎます。

日本政府には、核兵器禁止条約の発効に向けた流れの中で、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現するためにも、国際社会が核兵器のない世界の実現に向けた対話と協調を進めるよう、その役割を果たしていただきたい。また、平均年齢が82歳を超えた被爆者をはじめ、放射線の影響により心身に苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。

本日、私たちは思いを新たに、原爆犠牲者の御霊に衷心より哀悼の誠を捧げ、被爆地長崎、そして世界の人々と共に、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを誓います。

       平成30年(2018年)8月6日           広島市長 松井 一實



台風13号は首都圏直撃か

2018年08月06日 18時09分17秒 | 天気と自然災害


 台風13号は首都圏直撃の進路予想になった。【⇒http://www.jma.go.jp/jp/typh/1813.html
 西向きの進路が急に北上するようになっている。とても不思議な軌跡である。これもまた異常気象のなせるワザということなのだろうか。
 これに伴って天気予報も、7日から10日まで雨の予報となった。かなりの量の雨が予想される。

広島原爆の日

2018年08月06日 07時50分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日、広島原爆の日、朝から所用で出かけることになった。帰りは夕方になってしまう予定。

★原爆の日の洗面に顔浸けて      平畑静塔
★朝の膳に向ふ八月六日晴れ      原 朋沖


 第1句、原爆の日の多分朝、洗面の時間なのだろうか。洗面器に顔を浸けて、そのまま原爆の日の惨状に思いをはせているのか、或いは水に顔をつけることで当時の人びとが水を求めたという状況を顔に水を浸けたことで思い出したのか。あるいは黙祷に近い形の行為なのか。答えはない。しかし原爆の日、という季語の喚起するイメージと、洗面に顔を浸ける、という行為は別々のものではない。顔を水を浸ける行為は、原版の陽のイメージによってはじめて意味を持ったことになる。
 それだけ原爆の日、というのは日本の人びとにとっては思い体験であるし、そうなってほしいとも思われる。
 核兵器反対とか戦争反対とか声高に言わずとも、私たちの先行世代は論理ではなく、実感として、体験として「二度と戦争なんかごめんだ」と思っていたはずだ。だがしかし、戦後70数年、体験はすっかり風化してしまっている。語るに厖大なエネルギーを費やさなくてはいけない時代となっている。
 池田隼人、佐藤栄作という長期政権の首班は核武装を射程に入れていたことは公然の秘密と言われている。今の政権などはもっと踏み込んでいるのかもしれない。

 さらに第2句などを目にするといっそう、記録ないし公的な「事実」といったものの重さより以上に日常の何気ない中にこそ、記録や事実を超える重みがある、ということもまた不意に突きつけられることがある。
 8月6日、これは一般的なカレンダー上の日付ではなく、広島の原爆の日、という固有名詞化されたことばでもある。だが、この固有名詞に対して、あくまでも普通名詞である「朝の膳」が配される。広島原爆の日という具体的で凄惨な記録、事実が「朝の膳」によってよびおこされ、そして記憶をたどる縁となる。ことばとは不思議なものである。記憶と言葉との関係は一筋縄では解けない何かがある。この謎がある限り、言葉の喚起力は無限である。そして70年前の悲惨で凄惨な体験、アジアの人びとに与えた傷の深さは、さまざまなことばでよびおこされる。そのことばの力をまだまだ信じたいものである。