昨日は、これからの日本の将来像に対して時に用いられる「鎖国」や「清貧」といった言葉が、極めて曖昧模糊としている上に(個人ならともかく社会のレベルでは)非現実的で、それは閉塞感や思考停止をそれらしい言葉で誤魔化しているだけだ、と述べた(より正確に言えば、北朝鮮的な体制を構築すればある程度達成できなくもないが、そのレベルで自由を捨てなければならないという覚悟があるとは全く思えないのである)。
その最後でブータンに言及したが、ここではその続きを書きたいと思う。
ブータンはかつて、国民幸福度が世界一位で、生活が豊かなわけでもないのになぜそうなのかと話題になり、日本もその精神に学べと「ブーム」が起きたことがある。
しかし今や、話題になったその幸福度は低下している。その理由は、携帯電話の普及で(ネットにアクセスするのが容易となり)他国の状況を知れるようになったのが要因とされる。つまり、「あの人たちはあんな豊かな暮らしができているのに、自分たちはどうしてこうなんだ??」という比較による不全感が生まれ、それが幸福度の低下につながった、というわけだ。
この件について、単一の要因とまで言いうるかの検証は必要だが、「知ることが引き起こす不幸」という点で興味深い。
これを実際の江戸時代に照らせば、鎖国的体制や人の流動性の低さにより、特に村落共同体の人々はそもそも他の世界をよく知らない状況に置かれていた(これが江戸時代的社会の前提条件)。それゆえ、環境が過酷で、それを乗り切るために厳しいルールが課される=同調圧力が特に強く働いているコミュニティで生きざるをえなかったとしても、そもそもそれを比較計量する術がなかったのである(ある意味これは、今日も続く学校共同体の閉鎖性により、そこへ所属する生徒がその場所を「世界全体」のように誤認してしまうのと近い)。だから、外側から見た苦しさはあっても、それを「幸せ」に感じることができた、と言えよう(念のため付言しておくが、重税や飢饉による一揆などは起こっているわけで、当時の人々が皆ハッピーだった、などとお花畑的な認識をしてるわけではない。あくまで現代の情報化社会と認知の仕方が異なる、という比較対照の話だ)。
さて、そのような構造を踏まえて話を現代日本に戻し、再び前の問いを繰り返そう。「社会全体のレベルで、江戸時代に近い水準の情報遮断は現実的に可能か?」私の答えはノーである。なるほど個人のレベルならば、「デジタルデトックス」という言葉にもあるように、それに近い状態を作り出すのも全く不可能ではないだろう。しかし、社会(国家・コミュニティ)のレベルでそれをやろうとすれば、そもそも経済がストップしてあっという間にたち行かなくなる、というのは前に述べた通りだ(例えば経済関連の情報だけやり取りし、それ以外は全てシャットアウトできる、などというのは幼児的な発想である)。
よって、繰り返しになるが、社会のレベルで江戸時代のように「無知」な状態へ戻ることは不可能である。とするなら、先のブータンが直面した状況に、現代日本もまたさらされ続けるという結論になる。すなわち、経済的に衰退する自分たちに対し、成長する他国という視点で、まず比較・嫉妬による幸福度の(さらなる)低下が生じる。次に、自分たちの居住地域と日本の他の地域との比較・嫉妬も同時に起こる。
かかる状況においては、故郷を出てもっと豊かな地域に移住したり、あるいは現在の居住地域で何とか地位向上を計ろうという動きを止めることは極めて困難だろう。すると当然、人の流動性は高くなるし、階層変動の希求度合いも人によって異なるため、江戸時代的な流動性の低さに根差した相互監視・相互扶助の同調圧力が高い階級社会は成り立ちようはずもない。
加えて、娯楽の幅は江戸時代と比べようもなく広いので、畢境その趣味・嗜好は多様となり、同じような風貌をして同じ言語を話していたとしても、その価値観(内実)は全く違う、という状況が当然生じる。そして厄介なことに、日本人同士は外観の同一性により内実が近似しているという幻想を捨てられないため、自分の価値観が通じて当然だと思い込むばかりか、あまつさえそれを「共感」といった言葉で正当化すらするのである(それゆえ、他者の理解不可能性に立脚しない「共感」の称揚は危険だ、と書いたのである)。そしてそのような状況は、今日の学校社会とその閉鎖性(圧力釜構造)が、日本社会全体に広がったディストピアだ、とすら言えるのではないだろうか。
以上が、外国からの人の流入と国外への人の流出(だけ)をシャットアウトするという、「鎖国」の中ではまだしも現実的な政策を行った時に生じる状況予測だ。まあもちろん、この他にも同様の政策が決まった時には余裕のある人間が大挙して国外逃亡を計り、そのため人材や税収の面で大きなマイナスがあると予測されるとか、そもそも環境問題は地球規模の話なので、門戸を閉じたところでその影響を受けざるをえないとか、一々「鎖国」の波紋の大きさ、すなわち「鎖国」なる発想の非現実性・幼児性を指摘しだしたらキリがない。
ともあれ、今回こうして思考実験をしてみたのは、単に「鎖国」やら「江戸時代への回帰」、「清貧」といった言葉遊びへの批判のみならず、現代社会の複雑性や容易ならざる不可逆性を再認識しておく必要があると考えたためだ(ちなみに私は成長至上主義者ではなく、そもそも現状の体制にしがみついていても現状維持すらできないのが今の日本だ、という話を繰り返ししている)。
未来の施策を考えるにしても、中身のない言葉を弄するのではなく、このような現実認識と徹底的な絶望から始めるしかないのではないか、と述べつつこの稿を終えたい。
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