前回の記事では、善意に基づく動物の餌付けが、対象や社会にとってしばしば害悪となることを書いた。また、このような善意の暴走を人間社会に適応すれば、マックス・ウェーバーの「これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である」になるし、実例としてはフランス革命(における負の側面)になることも触れた(ポル・ポトの政策などの方がわかりやすいかもしれないが)。
ここでは、そういう善意の暴走が他にも見られる事例として、イギリスの「ゲリラガーデニング」を取り上げてみた。「善意でやっているのだから何が悪いのか?むしろそれを非難する人こそ悪である」とばかりの姿勢を見れば、これがエコ・テロリズムや優生思想などと隣り合わせであることが理解できるだろうし、また個人レベルでは「あなたのためにやっているのだ」と他者性を欠いた過干渉や尊厳否定を行う毒親を想起させることだろう。
「己の内なる良心に従う」と言えば聞こえはいいが、対象の複雑性、あるいは他者性を欠いた行いは、しばしば「親切の押し付け」、さらには他者の抑圧・攻撃とすらなりうる。しかも、ある場面においては賢明な人物が、別の側面では極めてナイーブな思考・行動に及ぶことは決して珍しいことではない(つまり、誰でも・いつでもそういう陥穽にはまりうる、ということだ)。
ゆえにこそ、断念に基づいた共生の作法(リベラル・アイロニズムやリバタリアン・パターナリズム)が非常に重要になってくると言えるだろう。
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