「共感」の危険性などと言うと、何を馬鹿げたことを言っているのかとか、何と冷血漢なことかと思われるかもしれないが、己の内なる声に従って行動したとしても、それが他者・社会にとって善き結果をもたらすとは限らない、という事例は身近にいくらでも存在する。
ここで挙げられている動物との関わり方は、それを理解するのに最適な例の一つだろう。兎や猫、犬、ハムスター何でもいいが、それに対する愛着から生じた行いを相手が喜ぶとは限らない(例えば「猫は構いすぎるとストレスになる」というのはその典型)。あるいは餌付けのように、相手が求めていたとしても、その行動をやり続ければ(野生に戻れなくなるといった)依存状態を惹起したり(糞尿被害など)周囲環境の劣悪化といった結果を招いてしまうこともある。
こういった現象を人間社会に適応するなら、「政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係を持った者は悪魔の力と契約を結ぶ者であること。さらに善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。これらのことは古代のキリスト教徒でも非常によく知っていた。これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である」というマックス・ウェーバーの有名な言葉になろう。
「共感」の危険性とは、その内なる声が危険な傾斜を持っていることをよく認識せず、ただその感情の奔流に身を任せることで他者を勝手に己の同質的存在と思い込み、かつ敵対者は自分にとって全くの異物だから排除してよいという心性を正当化する仕方で、最もよく発揮されるのである。
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