江古田ちゃん~「猛禽」と適応~

2012-06-16 18:34:06 | 本関係

※この記事は「メタ支店」における「記事A」に該当する

 

瀧波ユカリの「臨死!江古田ちゃん」を読んでいると、岡崎京子(や安野モヨコ)を連想する。きっとそれは、深刻な問題やしんどそうな事も、どこかカラッとした感じに描いてる(=涙を売りにしない)のが似ているからではないだろうか。さて、そんな「江古田ちゃん」の中で私が特に興味を持つのは、「猛禽」である。以下、それについて書いてみたい。

 

まず最初に、原作を読んだことがない人のために言及しておくと、「猛禽」とは天然を装った計算高い女性に対する作中でのあだ名(?)である。どこか抜けていて、ぽわんとした言動で周りを和ませるものの、狙った獲物(イケメン)は逃さず、それ以外の男も「お友達」としてキープする・・・おおよそそんな存在として描かれている。ではそれのどこが興味深いのか?

 

ここで少し補助線を引いておこう。このような計算高い振る舞いに対して、主人公たち(≒作者?)がイラっとするのは理解できる。ただそうなると、一種疑問に思う読者の出てきそうな箇所がある。それが5巻冒頭の「オレって凡女のひがみも一応許してあげられるし」という男に対して「そんな殿方たちの方をむしろ敵視してるんですけど」という主人公の発言だ。自分の苛立ちを理解してもらって嬉しいとは思わないのか?ひがみだと思われたくないがゆえの強がりなのか?そのように考えてしまう向きもあるだろう。

 

しかし私には、この発言が極めて必然的かつ妥当なものに見える。というのは、先にも触れたように、「猛禽」の振舞が意図的であるからだ。もう少し詳しく言うならば、「『調和』と『地雷』」でも扱った話だが、彼女たちのそれは「無害なる存在」を求める環境への合理的・戦略的な適応なのである(ただし重要な点は、そういう振舞にベタ・強迫的要素が皆無ではなく、割合こそ違えどその混合から振舞が生まれていることにあると思う=100%のベタネタも存在しない)。ゆえに、「猛禽」を生み出したのは男たちの欲求(ニーズ)に他ならず、それを「猛禽」たちは利用しているわけだが、彼女たちとは違いそんな共犯関係にまるで気づいていないベタでナイーブな男たちがいるよと。まあこれは「自分から明確に要求したわけではないから」というのがその理由だと推測はつくのだけど、コミュニケーションの帰結=どうすればより多くの実りが得られるか、といったことに多少なりとも意識的なら気づくはずのものだ(「キム・ギドク」や「白木屋談義」などでも書いたが、文脈に左右されない完全に独立・自由な感性や感情があるというのは、ナイーブな人間がよくしがちな発想だ)。そんな連中が、基準(妄想)にはまらない女性たちに対して「ひがみを許してあげる」などと上から目線で言うのを聞けば、彼女たちの中に怒り・侮蔑の感情が湧いてくるのは至極当然であろう、というわけだ。

 

さて、それを念頭に置いた上で、私が「猛禽」とそれを生み出す環境に関して考えたことは二つある。一つは「萌え」、もう一つは「空気」と合理的適応であるが、次回はそれらについて述べていきたい。

 

[蛇足]
この記事に対する一つの解釈として、私が「女性の味方」というポジションを取っている(取りたがっている)、というものが予想される。しかし単純にそういう意図であるなら、前回の「カーラ~吸血鬼の罠は傾国への澪標~」であるとか「褐色症候群L4」のような記事を繰り返し書くであろうか(まあ後者については、「属性」への執着がおもしろいだけでなく、それが一種の記号として交換可能性の問題と繋がる点も重要なのだが→「純愛という名の・・・」、「人間という名のエミュレーター」)?私が問題にしたいのは、そういう「敵―味方」の党派性、言い換えれば情緒的なことではなく、システムや「空気」のような環境に対するベタな埋没や戦略的活用のあり方といった、論理的な事柄なのである。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« カーラ~吸血鬼の罠は傾国へ... | トップ | サイゼリアのプリン »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本関係」カテゴリの最新記事