『かちかち山』は昔聞いた頃には殺す・殺されるといった話が沢山出ていたのに、今やその要素が漂白されたものが出回っている。ではいかにしてそのようなヌルい形になったのか?
こういった疑問を持つことはありえるにしても、ここまで変化を調べ上げるVtuber月ノ美兎の変態もとい探究心の旺盛さに感心するわ。詳細は動画を見ていただきたいが、私はこの動画こそ、教材として使うべきだと思う。
なぜなら、「そもそも疑問を持つとはどういうことか?」「疑問を調べるにはどのような方法があるか?」という視点、すなわち「学校で教わった内容をいかに効率よくインプットするか」とは違ったベクトルで学習の内発性を養う意味で、これほど取っつきやすくて参考になる動画はないからだ(念のため言っておくが、基本的な漢字の読み書きや四則演算含め、インプットが無駄という話では全くないので悪しからず)。
だから、これを論文と同レベルで持ち上げて絶賛するのはやや危険(そもそもそういう形態を目指してないのだから当然)であると同時に、その持ち上げている意見へムダに噛みついているコメントも不毛であって、言わば「人が物事を探究する・したくなる」とはどういうことかを、山本五十六の言葉ではないが、実際にやってみせることで範を示す、という意味で極めてインストラクティブであることを正しく評価すべきだろう。
言うまでもなく、こういったアプローチは他にいくらでも応用できるし、そういう思考を誘発する仕掛けはいくらでもできる。例えば桃太郎に関して、2000年代に入ってから「内容が現代風にアレンジして学校で教えられてる」といった話がニュースになった。
ここで議論はしばしば、「かつての形態のままを大事にすべき」という派と「時代に合わせて変えるべき」という派の間で戦わされるわけだが、真に子供の発想力・思考力を鍛えようと思うならば、複数の桃太郎を並べた上で、「それぞれを比べてどういう違いがあるか、そしてなぜそのような違いが生まれたのかを調べて発表しなさい」というお題を出せばよい。もちろんこれだけど「わかりませんでした。いかがでしたか」になる可能性があるので、参考として先ほど述べた二つの派の意見をそれぞれ複数掲載していく必要があるが。
何が言いたいかというと、『かちかち山』も『桃太郎』も、童話という点で「子どもにどのような発想を持ってほしいか」という大人たちの願望の表れであり、そして否定しがたい事実として、学校というのは一種の洗脳機関の側面がある(逆にこういう意識が全くない教師や保護者は大丈夫かと思うくらいだ。現代風桃太郎を持ち出してきて、これが今のあるべき姿だとしたり顔をしている教師などはその最たるものだろう)。ゆえに、一つの俯瞰的視点(メタ視点)を無理なく涵養するという意味で、このように「児童かくあるべし」という願望の発露がどのように変化したのかを生徒にトレースさせることは、発想力・思考力を鍛える意味でも重要、というか必要不可欠とさえ言っていいのではないかと思う。
というわけで、今回「委員長」ことにじさんじの月ノ美兎の配信内容を大変興味深く感じた次第だが、この話は何度か取り上げてきた古典教育の話にも大きく関連する。
例えば古典教育に関して、学校で必修とすることを肯定する人々が言うように、その内容をきちんと「読解」することが目的なら、興味を失わせて単なるテストで点を取るための道具とみなされるような文法詰め込みよりも、先にやることがあるのでは?実際、『枕草子』や『源氏物語』のごくごく一部を品詞分解して現代語訳したところで、一体何が「読解」できたのか私にはさっぱり理解ができない。
仮に原文を用いる(必要がある)とすれば、文体の違いを比較しながら、それぞれどのような特徴があるのか、同時代でどう評価されたのか等に踏み込まないと何もわからないだろう(「春はあけぼの」だの「いずれの御時にかこれある」が何の作品の冒頭であるかを知っているかなど、カルタやクイズ以外に何の益があるというのか)。
そして実際には、彼女たちの作品をただ比較しただけでは、「その時代の人々の精神」を理解することなど全くほど遠い話だ。というのも、平安時代が「平安」という言葉からかけ離れた戦乱と陰謀がしばしば巻き起こった時代なのは別に日本史の内容を細かく覚えてなくても応天門の変や薬子の変、平将門の乱や藤原純友の乱などから連想できるし、国語で習う知識としては、芥川龍之介の『羅生門』が平安時代に実在した門を元にしているが、そこから平安時代の困窮や飢餓、追い剥ぎといったおよそ「平安」からはかけ離れた世界を見て取ることができる(もちろん現代劇風にアレンジされているが)。
では、今述べたような要素は統合して平安時代の像として一般の人々に認識されているだろうか?答えは否だと私は考える(疑問に思うなら、自分の周囲の人間が平安時代の名前を出された時に、今述べたような要素を羅列できるかどうか想像してみるよい)。これらは、個々バラバラには学校で教わる知識である。しかしながら、反乱や飢餓については単に用語を教わるぐらいで終わる一方、『枕草子』やら『源氏物語』は暗記を踏まえて読まされるからこそ、そちらに平安時代のイメージが引きずられるのではないか?
この認識が正しいとすれば、現在の古典教育における原文購読というものは、文章の「読解」はおろか、その時代の正しい像を理解することをむしろ妨げてすらいると言えよう(あえてわかりすい例を出せば、堀江貴文の動画配信を見て、現代日本人はみなこのような感じなのかと誤認するようなものである)。
私が古典教育を必修化する必要がないとか、原文でやる意味がないと繰り返し述べているのは、今のような現状を踏まえてのものである。つまり、それらが無意味であるというよりもむしろ、あまりに現状がその目標と乖離していて(目標に比してレベルが低く)、むしろ害さえ及ぼしているのであり、なぜそのようになっているかと言えば、古典教育の目的をお題目のように掲げるだけで、それを成し遂げるための工夫が遅々として進んでいないからだと考える(その工夫については、文法分野は映像授業で効率化するなど様々述べたので、ここでは繰り返さない)。
そしてそういったありうる工夫の一環として、文章をただ読むのではなく、文章同士を比較して分析させる授業を通じて、読解力を養成することを早いうちから習慣化し、その先に高校の現代国語→古典という流れが提示できるわけだが、その意味で冒頭で紹介した月ノ美兎の『かちかち山』に関する興味の喚起と調査の過程は、非常に参考になるものだと述べつつ、この稿を終えたい。
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