これからの日本社会がカイジの「鉄骨渡り」になる理由:「包摂なき抑圧」の地獄

2021-12-25 11:45:45 | 生活

 

日本の少子高齢化社会が進むのは確定した未来だ。予定より数年早く進行してるぅ!とか言われてるが、対策も有効に機能してねーし、複合的とは言え原因が解消してないんだからどんどん少子化は進む。当たり前だよなぁ(・∀・)

 

まあこういう話は何度もしてるんで、しつこく繰り返すのもただ不安煽ってるみたいだし最近は書いてなかったが、日本社会がヤベー状態になるのは別に少子高齢化や経済衰退(経済規模縮小・国際競争力のある製品の減少)だけが原因と言うわけじゃあない。

 

じゃあ他に何があるかと言えば、この動画で描かれるような要素ではないだろうか。例えば社会的見地の欠落した短絡的な自己責任論、「貧すれば鈍する」から生まれた事なかれ主義(リスクヘッジ至上主義)がさらにそれを強化するという現象、価値観はすでにバラバラなのに未だ集団主義から脱却できない思考様式、それらの背景でもある共同体の崩壊(まあそれは「解放」でもあったからそうなったんだけど)などなど・・・

 

包摂をするがゆえの排除と抑圧(=伝統的共同体)でもなく、包摂をしないがゆえの自由な離合集散(=ある種のアソシエーション的社会)でもなく、いわば「包摂なき抑圧」という砂をかむような社会がすでに現出している。そこでは、いつ自分がドロップアウトするかもしれないという不安、承認の枯渇と精神的疲弊、目指す方向が見えない不安とそれによる過剰適応(=キャラ的人間関係)が日々行われているが(そしてドロップアウトした先には、多くの場合「自死」か「無敵の人」のいずれかが待っているわけだ→読書会で『自殺論』を取り上げようと思う理由)、そのような状況は社会のバッファが減り続けることで今後ますます強化されていくことだろう。

 

その背景は「不安」であるが、多くの人間は不安ゆえに連帯するのではなく、「小さな悪」を見つけては攻撃をし、溜飲を下げることで生きる糧を得る(この構造はホイジンガの「遊び」の対立軸や、全体主義の起源として触れたことがある)。その標的が、明日は自分であるかもしれないと薄々気づいていながら、閉鎖社会においてはその病理から免れることが難しいのである(なお、別にこれは日本だけに限った話じゃあなく、隣国も出生率が1を切り、受験競争も就職もかなり厳しい状態になっていることはよく知られている通りだ)。

 

そんなことを考えながらこの動画の学校描写を見ると、「空気」でいくらでも変わるそのいじめの構造が、そのまま今の日本社会の縮図であると理解されるのではないだろうか。とはいえ、それが変化するのには膨大な時間を要するし、それが変化する頃には今よりずっと遥かに疲弊した状態で、そこから状態を良化させるのは相当な困難を伴うと予想される。

 

まあだからこそ、わっちは未来ある若者ならサル山の大将を目指すより、いつでもこの社会を抜けられるように、海外に出ておいた方がよいと思うのである(すると、今述べたような状況でさえ日本に優れている部分があるとも気づくだろうし、それらを踏まえて日本にて生きることを選ぶのなら、その再帰的選択は肯定されるべきものだと思う)。まあそれが無理な場合もあるだろうから、その場合は大局的な改善には期待せず、できるところでつながりを作ったり生き残るためのシステム作りをするしかないだろうなあと述べつつ、この稿を終えたい。


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