これまで様々な本やYou Tubeチャンネルを紹介しつつ、仕事の締切も重なって時間が足りないのでコピーロボット→四身の拳→メタルクウラと分身しないと回んねーみたいなことを書いてきたが、とにかくコンテンツが溢れかえっていてそれを消化するのに汲々とするみたいな話もちらほら聞くようになってくると、改めて過去の賢人の偉大さに気付かされる。
学生時代に「ストア派」と呼ばれる思想家たちが存在し、『生の短さについて』などの中で、彼らが「己の欲望に振り回されないことが幸福なんだ」と主張したと聞いた時は、「まあ確かにお金とか権力とか欲望に限りがないから、どっかで足るを知らないと身を滅ぼしかねないよね」と思ったものの、まあそんな恵まれた状況になる人間は多くないだろうと遠い世界の話だと感じていた。
しかし、娯楽が世界を覆い尽くし、もはや多くの人間が情報や娯楽の洪水に押し流されるようになった今、それらを消費したい欲望と、到底消費しきれない現実にどう折り合いをつけるかが重要になってきているように思える(少し軸はズレるが、デジタルデトックスなんかもそういう性質を持った提言と言える)。というのも、このバランスを逸すれば、娯楽の享受は単なる嗜癖と化し、欲望通りそれをやりきれないことがむしろストレスにすらなりかねないからだ。
「映画を早送りで観る」だとか「ファスト教養」というスタイルは、こういう状況の中で(もちろんシステム的な変化もあって)ある種必然的に生まれてきたものと言えそうだ。
ただ率直な意見として、私にはそれらが極めて不幸な状態のように見える。もちろん、豊かな趣味があって、可処分時間の少なさから仕事関連の知識はファスト教養的に取り入れるとか、どこまで戦略的にその態度を採用しているかで違いはあると思うが、食事の後であえて嘔吐してから別の食事をしていた古代ローマ時代の美食家たちのように、もはや娯楽の消費がタスク化(義務化)しているように感じられるからだ。
なるほど百歩譲って、そのような態度が主に自分の欲望から生み出されたものならまだいい。しかし例えば、友人グループとの話にキャッチアップするために、量産されるメジャーコンテンツを消化する目的で早送りを見続けたり、まとめを参照し続けねばならない状況というのは、もはや「来月の原稿のために映画を~本消化せねば・・・」というプロのライターと何が違うのだろうか?
いやライターなら、仕事をやめればタスクから解放される自分のペースで趣味を楽しめる状況に戻れるが、日常的な人間関係のためにそれを続けざるをえない人は、もはや嗜癖のように止めることが困難なのではないか(趣味のタスク化が日常的になってしまうことの悲劇性)。
このように考えてみると、「何も考えない時間を作る」といった取り組みを始めとして、意識的に趣味のタスク化から距離を取る工夫をしないと、誰もが欲望という名のしがらみに振り回される時代が到来してしまったと言えるように思うし、まただからこそ、2000年経った今、むしろその提言が極めて一般性・重要性を帯びるようになったストア派の主張を思い返し、優れた古典に触れることの大事さを再認識する今日この頃である。
・・・とここから自分が視聴しているYou Tubeチャンネルなどとの関わり方でも書こうと思ったが、割と上手くまとまった気がするので今回はここまで。
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