『他人の顔』とペルソナつながりで「虜2」および「屈折」を取り上げよう(再掲しよう)と思う。原文が長いので詳しくはそちらをご覧いただきたいが、最後に言及している「人は自分の中にある他人のイメージとコミュニケーションすることしかできない」という部分は、「さよならを教えて」や「沙耶の唄」などのゲーム、あるいは「祈りの海」といったイーガンの諸作品とテーマ的に繋がるところであろう。
ちなみに「雫」が狂気を扱った代表的作品として見なされるものとして取り上げているが、確か自分も「冒頭で描かれる憎悪の対象が荒唐無稽・抽象的だからこそ、それがかえって一般的な説得力を持ちうる」という趣旨の記事を書いたような気がする。これを今風に「中二病」といって笑うことは容易い。しかしそれなら、今この社会(世界)で起こっている問題点とその解決法をあなたは提示することができるのだろうか?それができないのであれば、何やら大いなるものへの怒りについて、少なくとも嗤う資格は持ち合わせていない(たとえば「太陽を盗んだ男」的な状況は、今日ますます起こり得るものとなっている)。
「誰でも良かった」「今は反省している」という発言は、ほとんどの実行者たちがこのことを理解していない事実を示しているように思える。そう、「特定の誰かではならない」のだ。ゆえに、特定の誰かを傷つけたところで何が解決・解消されるわけでもないし、「反省」することになるのは至極当然の話。「接吻」の主人公が、結局罪悪感に呑まれていくのと同じように、ね。
[原文]
さて久しぶりの「傑作の周辺」である。
今まで紹介してきた作品と違いこの虜2は(かなりの努力をすれば別だが)そもそもプレイするのが困難という事情がある。それでも書くのは、かつて「精神の境界線」でも記したように、この作品が私にとって重要な意味を持っているからに他ならない。さて、前置きはこのくらいにして本題に移るとしよう。
なぜ私は虜2をプレイしようとしたのか?そしてなぜそれが「作業」となり、当初の目的(?)が挫折するに到ったか?前掲の「精神の境界線」でもある程度は触れているので、ここでは虜2に求めようとしたものを最も端的に表している「屈折」の歌詞を引用してみたい(※)
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仮初を身に纏い 踊り続けるマスカレード
罪深き快楽に 誘い謎めく指先
倒錯の愛と知りつつ 逃れられない記憶の手
ペルソナの奥で 微笑むあなた
鏡に映る 素顔の私
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「欺瞞の告発」や「宗教と思索」でも書いたような経緯で、欺瞞と虚構に満ちたこの世界にウンザリして狂気、より正確にはその先にある「素顔」(真実・真理)を求めた(「滅びの希求」・「狂気への傾倒」・「極限状況での振舞い」)…「屈折」の歌詞に表れる「仮初」「マスカレード」「ペルソナ」、「鏡」「素顔」、さらに調教(と言って語弊があればSMの)要素が絡むという構造は、当時の自分の思考様式と虜2に求めたものとよく対応している。つまり、調教とはペルソナを引き剥がして素顔を露にするための行為であるが、一方でそれ以上でもそれ以下でもなかったのである。
ところで、高校時代に虜2の話をしているとき、友人(pokosuke)は「狂気はいいけど鬼畜はどうも(合わない)ね~w」と言っていた(ちなみに彼は雫を狂気の代表として挙げていた)。両者の違いがいま一つよくわからなかった当時の私は、違和感こそ覚えたものの特にそれに応えることはなかったが、もし鬼畜を「非道な行為」、狂気を「行為を支える精神性」と定義できるなら、前述の如くそれは私にも当てはまる。ゆえに、調教の部分が「作業」となったのは今思えばむしろ必然なのであった。というのも、私が求めたのは、調教という行為そのものではなく、その背景となる、あるいはそこから生まれ出る狂気だったのだから(「狂気と『情念』」)。
ただ、当時はその区別ができていなかったし、また狂気と正常を二項対立的に捉えるという愚も犯していた(先ほど引用した「ペルソナ」と「素顔」といった二項対立的な歌詞はその意味でも当時の考え方と類似している)。しかし、これはすでに何度も述べたように、虜2をプレイすることでむしろ狂気への傾倒は挫折し、それは統一的な自己という幻想の崩壊と相まって、価値相対主義と無関心へと繋がった。それが単なる距離をとった嘲笑的態度から二元論の積極的な相対化への変化、別の言い方をすれば「鏡(像)」を「プリズム」へと自覚的に変化させてものを見るようになるには、かなりの時間を待たなければならなかった。
そして以上のような変化あるいは気付きのきっかけになったという点で、虜2は私の中で重要な作品であり続けるだろう。
※
ちなみに、これはOVA版のものであり原作は未プレイである。なお、「屈折」そのものについて言えば、「結局相手を見ていなくて自分自身の劣等感を投影しているだけだった」というエンディングであり、一部で有名な「未来にキスを」(筆者未プレイ)の「人は自分の中にある他人のイメージとコミュニケーションすることしかできない」という主張に類似した内容となっている。「作品とは『自己の投影』である」も参照。
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