うみねこの第三者視点:自分は信用できるのか?

2008-01-06 11:26:59 | ゲームよろず
前回、うみねこの第三者視点が作中人物の視点で占められているひぐらしとは異なっており、それが二つの点で注目すべきだと書いた。その時は推理の側面を考えたのだが、今回は演出・テーマという側面で述べてみたい。


「ひぐらし鬼隠し編再考」でも述べたように、雛身沢症候群は

主人公の視点とは客観的なものでもなければ、真実を映し出す鏡でもない。

という、言わば「視点への挑戦」であった。とすれば、うみねこの第三者視点への疑いはどんな意味を持っているのだろうか。前回「第三者視点は誰のものか?」という問いを立てたとき、「そんなものはプレイヤーに決まっているじゃないか」と思った人もいるだろう(※)。そう、作中の誰のものでもない第三者視点は、プレイヤーのだと考えるのが当然である。とすれば、その視点への疑問はすなわち

あなた自身の見ているものは本当に信用できるのか?

という問いに他ならない。今まで、作中人物を通しての幻想であったため、私達は「彼ら」と私達を分けることができた(罪編でレナ視点と圭一視点の色が分けられていたように、ひぐらし自身もそれを促している)。しかしここにきて、私達は(他の誰の目でもなく)自分達が見ているものを疑わなければならなくなっている。主人公の視点が特殊である、というパターンは傑作「沙耶の唄」などでも見られる。しかし、第三者視点がそもそも疑わしいというだけでなく、推理のためにはそこに検討を加えないわけにはいかない、という形式は(少なくとも自分の経験上)初めてであり、非常に興味深い。風呂敷の閉じ方は難しいだろうが、「第三者視点=自分」が疑わしいという演出・テーマ自体がおもしろく、かつ推理形式によってそれを考えずにはいられないようにしてあるところが非常に巧みである。要するに、うみねこでは幻想に関するテーマが一段階掘り下げられていると言えるだろう。


なお、第三者視点は「神の視点」とも呼ばれる。これを念頭に置くと、その「神」に魔女を認めさせんとするベアトリーチェは、「カラマーゾフの兄弟」のイワンの話に登場する悪魔を想起させる(もっとも、この悪魔はキリストにその神性を証明させようとしているため、やり口は逆だが)。その認めさせる相手が十字架を持つバトラ(キリエもネクタイに模様が入っている)であることも付け加えるなら、カラマーゾフは無関係にしても「神ー悪魔」という意識は確実にあるようだ。にしても、ひぐらしで「宗教のことはよくわからない」と梨花にしゃべらせたにもかかわらずこのような演出をするのは、一体どういうつもりなのかな、かな…

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« フラグメント20:共感・感情... | トップ | フラグメント21:過程の不在... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ゲームよろず」カテゴリの最新記事