山から降りて市街地の方へ向かう途中、さっき渡った川にぶつかった。なるほど川、か・・・
高山に関する二つ前の記事で、「日本は自然に親和的」だと言われるが、一体「親和的」とは何を指して言っているのか?と書いた。というのも、「親和的」というのが「自然をありのままに受け入れる」ことであったり、「自然に手をつけない」という含意の元に使われているのなら、それは全くの的外れな評価だからだ。
たとえば雄大な川の流れを見て、「ああやっぱり自然はすばらしい」と思ったとしよう。しかしその川は、本当に「ありのまま」なのか?ここで多くの人は、交通網の発達などいわゆる近代化のことを連想するかもしれない。すなわち、道路、ガードレール、ダムetcによって川そのものは自然であっても、その周辺の開発の影響を受けないはずがない、ということを言っているのか、と。
もちろんそれもある。しかし実は、私たちが見ている川の流れそのものが、そもそも近代化以前にしばしば改変されてきたものであることをご存じの方も多いだろう。著名なものは主に江戸時代に行われた利根川の東遷工事であるが、その他武田信玄による治水工事なども有名である。これらの工事によって、洪水の被害が軽減され、平野部に居住することが容易になって人口増や収穫増につながったわけであるが、何を言いたいかというと、私たちが人口と見習わしやすい前述の道路などの開発以前から、自然には様々人の手が加えられていたということである。このようにして人間に害が少ないよう「調伏」した川や山を見て、やはり自然はすばらしいとか、あるいはこうした自然の風景がある日本はすばらしいと評価する。それはたとえて言うなら、去勢されておとなしくなった動物を見て(その改変を知らず)その動物は人間にとって元来扱いやすいものだったと無邪気に愛でる行為に似ている。まあダムみたいなコンクリなどでできたヤツは人工物だとわかるけどそうではないものは認識しづらいってのは同意するが、じゃあコンクリや金属を使わなかったからそれが手付かずな自然ということにはならないんだなー。まあ近代化されていない=自然という錯覚は、逆に言えば認識する側がそれだけ近代(あるいは都市)というものに毒されていることの証左になるという意味では興味深いのだけれども(余談だが、英語のnatureはいわゆる日本語の自然と違い、この世界の営みそのものを指している)。
私はふらふらと地方に出かけることがあるし、そこで山や川を含めた自然環境に身を置くのは好きだが、対象物を見てそれを手付かずのものだと考えたり、あるいはそれをもって「田舎」を盲目的に理想化しないようには戒めているつもりである(ちなみにこの話は、「子供は天使じゃない」・「思い出騙り」・「『保守』の名に値せぬもの」といった記事にも関係する)。
そんなことを考えているうちに、市街地へ戻ってきた。さあて、これからどうするかな・・・
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