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「感情移入」という病:その由来について

2007-06-21 12:29:02 | 抽象的話題
(始めに)
今回より、「感情移入という病」、「君が望む永遠と感情移入」、「沙耶の唄と説明不足」(後二者は仮題)の三編にて感情移入と説明不足の問題を扱う。後二者は、題名の通りYU-NO君が望む永遠沙耶の唄の内容と深く絡んだものになるが、それに先立ってより一般的な事柄、つまり「感情移入」というものがいかなる理由によって要求されるのかを考え、この問題が単に作品への態度に留まらないことを意識づけておきたいと思う。


(「感情移入」はなぜ病と言えるのか)
「感情移入」を「病」とまで表現している以上は、まず「感情移入」をそういうものとして定義する理由を述べる必要があるだろう。リンク先の記事などで何度も述べてはいるが、簡単にそのことを書いておきたい。


ゲームのレビューを見ていると、「感情移入」できないという評価と合わせて「私なら~する」という一文が添えられることが少なくない。この事実を分析してみると、その人は「感情移入」しているつもりで実は「今の私がそのような状況に遭遇したら…」というように(移入とは真逆で状況を取り出して)考えているだけだとわかるが、重要なのは「今の私」という部分におそらく受け手が気付いていない点である。というのも、それがどの程度作りこまれているかはかなりの差があるとはいえ、作品内の人物もまたその状況に到るまでの人生(文脈)が存在しており、そこから得られた経験などに則って行動しているのだが、そうすると特殊具体的な人生を送ってきた「今の私」と性格や行動原理が違うのは当たり前である。にもかかわらず、「感情移入」と「私なら…」が同時に述べられているのは、感情を「移入」する、つまり作中人物の文脈でその行動の必然性などを考えているのではなく、単に現在の自分にひきつけてその是非を評価しているに過ぎないという事実を暴露している(もっとも、これはひとり作品の理解にとどまらず、歴史の流れや社会の在り方を理解する上でもしばしば行われがちであるが)。本来作中人物が他者であることはあまりに自明な事実なのだが、「感情移入」という接し方はそれを思考の彼方へ追いやってしまう(対象に没入する)のみでなく、相手の文脈を考えず自分の基準を平然と押し付ける契機を作る(同質化の強制)がゆえに病と呼べるのである。


ドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」で兄弟の生い立ちを最初に伝記風に書いているが、その内容は彼らの行動原理や考え方に必然性や微妙な陰影を与えるだけでなく、それがいかに特殊具体的であるかの表明、つまり受け手に対する他者性を明示することにも成功しているように思う。もしかすると人によっては、彼らの凄まじい生い立ちを見てその苦しみを理解できたように思うかもしれないが、それは「今の私」という視点に縛られた錯覚に過ぎない。同じ環境で育ったとしても全く同じ人間にはならないし、ましてやカラマーゾフたちの苦悩をそれと同じ時間軸(同じ年齢・同じ時間の長さ)で追体験できるわけではないからだ。作品である以上は冗長にならないよう様々な描写を削っているのだが、「感情移入」はそのような作業を通してできたものを見たり読んだりしているという基本的なことを忘却させる上に、それを捉えきれた(「感情移入」できた)と錯覚させるのである。なお、説明の細かさと時間軸の問題は君が望む永遠の感情表現及び第一章と第二章の狭間の理解にも繋がっていることに注意を喚起しておきたい。


※2
実を言えば、受け手は作中人物の文脈どころか自分のことさえろくに理解できていないし、しようともしないのが現実である。感情ではなく感覚の話だが、例えば「痛み」はその最たるものだ。我々が痛みを覚えるとき、それが何に由来しているか、どのようなメカニズムによって生じているかを完璧に理解していることはおそらく無いだろう。にもかかわらず、他人が「~が痛い」とか言っている時平気でその痛みがわかるようなことを述べる。本当にわかっているのだろうか?自分の痛みの性質さえ理解できていないのに?相手は自分より痛かったり、あるいはその逆である可能性をどうして考えないのだろうか。かように、人は自分の経験に引きつけてわかった気になる生き物であることをよくよく自覚しておく必要があるだろう。


(「感情移入」の由来)
筒井康隆は『着想の技術』(1983年)の中で、日本においては、小説が現実を投影したもの、あるいは現実らしさ(一言で言えば「リアリズム」)を持っているものでなければならないという立場が支配的であり、それが欧米と異なっていることを指摘している(前掲書 79~92p)。作り事なのだから「必ず現実を反映していなければならない」などという決まりはないはずだが、要するに日本人(あるいは日本の文壇)は「虚構らしい虚構」(例えば同じく筒井康隆の「虚人たち」などがわかりやすい)や作り事であることを意識した荒唐無稽な内容を理解し、受け入れる感性に欠けているということらしい。そのような差異はどのようにして生まれたのだろうか?


ここで考えられるのが「感情移入」である。感情移入について、山本七平は『空気の研究』(1983年)の中で日本人が対象への感情移入を容易に行う傾向があると述べている。この見解を鵜呑みにすることはできないが、人称表現においてもフランス語と日本語の差異などが指摘されており、(たとえ相対的にでも)日本語・日本人が対象に埋没する(=入り込む)傾向を持っているとは言えるだろう(※3)。そしてまた、ゲームレビューにおいて「感情移入できる・できない」といった評価がしばしば表れること、しかも評者が「感情移入」が評価の基準になる根拠を全く問題にしていないことは、作品に「感情移入」するのが、あるいはそれを求めるのがいかに当然と考えられているかを証明している(ただし、山本の感情移入とレビュワーたちの「感情移入」が全く同質のものとまでは言えないが)。


それが「虚構らしい虚構」の生まれないのとどう関係があるのだろうか?そういった特徴を持つ作品は、「感情移入」の材料となる現実との接点がそもそも少なかったり、あるいは移入できたと思った時点でそれが虚構であると見せ付けられるため、気持ちよく対象に埋没できないのだと考えられる。例えば芥川龍之介「地獄変」の良秀は、「実際に見ないと書けない」と言っているが、この立場が作品の受け手に移ったものと解される。「実際に経験した、ありそうな(気がする)ものでないと読めない」というわけだ。要は、現実との繋がり(一言で言えば「自然主義的リアリズム」)を常に感じられる作品でなければ安心できないし、理解もできないのであろう。


君が望む永遠はこの「感情移入」によって不当な評価を受けているゲームであり、また沙耶の唄は(おそらく)SFにおけるリアリズム(細かい説明・設定の要求)によって「説明不足」との評価を受けることのあるゲームだが、次回はその評価を批判的に見ていくことにしよう。


※3
『「普通がいい」という病』(2006年)49~52Pからの孫引きであることを断っておく。
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