『こころ』、BL、「太陽がいっぱい」

2024-06-19 17:19:05 | 感想など

古典教育が必要であるという立場の人間が主張する理由の一つとして、原文で学習することが一次史料の読解能力を養成することに繫がる、というものがある。これに対し、私は完全にそれを否定するものではないが、しかし現在の教育においては、そもそも現代文にしてからがそれを涵養するようなものとはなっていないこと、そしてその状況を理解せず、また改善の動きもしないのに壊れたテープのようにお題目だけ繰り返しても無意味である、と論じた。

 

その時に夏目漱石の『こころ』を取り上げ、それが時代精神の反映(cf.煩悶青年)、あるいは『行人』や『私の個人主義』など他の作品との比較が必要だと述べたが、これはもちろん「公教育の場で読解力を鍛える」という目的での話であり、個人でこの作品をどう解釈するかもちろん自由である。例えば、聞くところによると、『こころ』を「先生」とわたしのBLとして解釈する向きもあるらしいが、もちろんそれも自由であるし、この作品を「全てが精神病患者の妄想」としてもよい。

 

しかし、これを公教育の場で提示するなら、ある程度の「論証責任」が求められる。即ち、先の話とも重複するが、作中の描写、他作品との比較、漱石の作家性、批評家の見解を参照したり、それを整合させていく作業だ(これが「古典教育が目指す一次史料の読解力」とやらにも通じることは言うまでもない。なお、文章だけだと抽象的なので、例えば『逃げ上手の若君』に関連して出され、諏訪氏関連の史料に言及した以下の動画を見れば、史料批判とその重要性が多少は理解されるものと思う)。

 

 

 

 

これを欠いた状態で都合のよい箇所だけ取り上げ持論を展開するのは、まさに「それってあなたの感想ですよね」の世界であり、そうならないために、わざわざ公教育で読解を強制しているんでしょ?という話である(この話がわかりにくいなら、今年度の共通テストから契約書の読解などを含む「実用的文章」が出題されることとその意図を想起してもよいだろう)。

 

ちなみに今述べた『こころ』=BL説で私が思いつくものの一つは、映画「太陽がいっぱい」とその解釈である。これは主人公トムが金持ちの友人フィリップを殺害して本人になりすまし、その財産などを乗っ取ろうとする話で、嫉妬心や怒りといった、一種被害者意識も絡んだ犯罪である(まあ実際に主人公はかなりひどい目にも遭っているので、これを「被害妄想」とまで断じるのはさすがに不当だろう。また作品としてもフィリップを軽薄でいけ好かない人物として何度も描写しており、受け手がトムの方に同情的になるように演出している)。

 

こう見ると図式としてとてもわかりやすいのだが、映画評論家の故淀川長治は、この作品をして「主人公トムは実のところフィリップを愛しており、この映画の理解にはそれが必用不可欠だ」という趣旨の見解を述べた。この解釈に立てば、トムの殺人とその後の行為は、復讐心というよりもむしろ、「憧れに対する同化の欲求の表出」ということになる。

 

この見解について、フィリップになりすましたトムが、その服などを身に着けながら鏡にその姿を映して陶酔している様は、確かにそういう要素を思わせる描写ではある。しかし、「好きの反対は無関心」とも言うように、強烈な憎悪とは愛情の裏返しにも見える訳で、それがトムとフィリップの二人が長くいる(ホモソーシャル的関係性を思わせる)構成も相まって、愛情とも取れるような描写になっているのではないだろうか(実際、彼の解釈はあまり賛同は得られなかったらしい)。あるいはむしろ、ここには淀川個人の資質が影響しているのではないか?とも思えてくるところだ。

 

しかし一方で、「太陽がいっぱい」の原作者、パトリシア・ハイスミスに注目すると、また違った印象も出てくる。というのも、彼女自身はレズビアン(ないしはバイセクシャル)を自認しており、その処女作(ただし名義は別人)は人妻と女性店員の恋愛を描いた「The Price of Salt」であった(今では「キャロル」として映画化されているので、そちらの方が有名か)。

 

これが発表された1952年当時は同性愛者というものは病気の一種だとかんがえられており、「イミテーション・ゲーム」でも描かれた同性愛者アラン・チューリングが、「薬物治療」の末に自殺したのもこの頃である。そう考えると、表題のキャロルが異性のパートナーと結婚して子供を授かりながら、テレーズ=同性に惹かれていく様は、当時の同性愛者の置かれた状況を端的に示していると言えるだろう。

 

さて、こういったハイスミスの作家性に注目しても、「太陽がいっぱい」のトムとフィリップが実は同性愛関係にあったと結論づけるのは難しいように思える。しかしながら(少なくとも)トムの描写に、愛憎渦巻く同化の欲望のようなものが強烈に感じられるのは、単に嫉妬の深さと強奪の愉悦のみとは言えないのではないか、ぐらいには考えることができそうである。

 

というわけで、『こころ』=BL説から始めて「太陽がいっぱい」の同性愛的解釈に触れてみたわけだが、もしこれが学校で行われる教育とは全くかけ離れた妄想的遊戯のようだと考えているなら、2022年に東京大学の英語(最後の長文)で出題されたテーマが、genderqueerやジェンダーバイアスに関するものであったという点に注意を喚起しておこう。

 

この文章は読み始めた段階では人称を見て若干混乱するのだが、要するにこれも意図されたものであり、例えば日本語の役割語の利便性と拘束力などにつなげて考えることができる。またこういった文章は、2019年に上野千鶴子が東大入学式の祝辞で述べた内容を思えば、突如採用されたものではなく、むしろ必然的に出てきたものとさえ言っていい。

 

以上を踏まえれば、公教育で扱う題材において、こういった関係性や性愛に関する社会通念を考えていくことは、外れているどころかむしろ極めて重要なものではないか(ただまあ相当な技量と慎重さが求められるので、触れたくない人も多いだろうなとは思うが)。

 

「公教育を通じて、史料としての読解力を養成する」といったことを本気で重要視するのであれば、こういうレベルのことを当然のようにクリアしていかなければならないし、それを可能にする仕組みを徹底して構築する必要がある(言い換えれば本当にそこまでやる気あるんですか?って話だが)、と述べつつこの稿を終えたい。


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