さて名曲紹介に連動してPCゲーム関連の記事を再掲・・・というわけでforestに関する覚書を載せていくことにしたい。
原文にもあるように、以下の内容はプレイ中に書いた最初のレビューだが、この時点からすでに内容自体よりも表現形式に強い興味を示していたようだ(まあエンディング=結論が見えてないから、てのもあるだろうけど)。ところで様々な語り部がいることを認識の恣意性に繋げているが、これは後の「明日、君がいない」の演出について述べたことと同じである(もっとも、後者が極めて適切に作品のテーマと連動しているのに対して、前者が単なる表現形式の一環でしかない点は大きな違いだけど)。
ちなみに、この記事を含めてforest関連の話題はすべて「ゲームよろず」で掲載しており、(そこまで正確に覚えているわけではないが)かつての自分がこれらをあくまで断片的なものにすぎず、いずれ統合されうるものだと認識していたようである。まあ今思えば、そのようなフラグメントの集積の方が、かえってこの作品のレビューとしては(パフォーマティブな意味で)相応しいのではないかという正当化をしてみたり気がするが(→「『ムーたち』書評」、「ヒヤマケンタロウの妊娠」と「border」など参照)w
ついでにもう一つ言っておくと、筒井康隆に言及するなら『脱走と追跡のサンバ』に触れてないのは片手落ち。あと村上春樹の『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』とかね。「夢オチ」に関しても「マトリックス」とか色々なものを引用できたんじゃないかしらんと思ってみたり。ま、その辺テキトーに突っ込みながら読んでくだしあヽ(。∀゜)ノ
[原文]
Liar-softが発売した怪作とも傑作とも言われるForestだが、今のところ半分ちょい終わったところである。だからまだはっきりしたことは書けないけれども、面白いと思った点を挙げておきたい。
文学的には既にありきたりになってはいるが、作中人物が虚構ということを強く意識しながら行動するという手法がある(ちなみに、最近の作品でそれが最もラディカルに表現されているのは筒井康隆の『虚人たち』だろう)。
Forestの作中人物が意識する虚構とは主に物語や寓話なのだが、それは「リドル」を戦い抜くという話の構造によって不自然にならない程度に表現されている。だが途中からは、「リドル」のためという受動的な要素ばかりでなく、自分達が物語(これは比喩でも何でもなく言葉どおりの意味だ)を積極的に作り出している存在であるという視点にシフトしていく(もっとも、最初の方もボカされているだけで、実は物語生成の構造に気付いている者もいるのだが)。
今はその視点転換が行われている所なのでこれ以上のことはわからないが、おそらくはこれが、「おわりの世界」や「魔女」の話が出てくる「物語る視点」とでも言うべきパートで、陳腐な表現や物語に求めるものに関する議論と繋がっていくのではないか?という気がする。
ただ難しいのは、当然のように予想される「夢or妄想オチ」という疑念を作中人物の口で語らせることにより、すでに単なる(現実の)メタファーとしての世界という次元を超えつつあると感じられることだ。
※例えば、作中人物が虚構を意識することにより積極的に物語を紡ぎだす存在へと変貌していく過程は、最も「陳腐」なところでは現実の我々の社会や生活のメタファーであるというパターンが考えられる。あるいは多少深奥に迫るものならば、多数の物語の混合や物語る行為、そしてそれが森に反映されていくという混沌というかプリズム的な描写は、我々の認識の恣意性を暗示する=「世界は世界としてあるのではなく、人の認識の数だけ存在する」というようなテーマもありうるだろう。だが結局それは、現実に対する教訓的な話という意味で、未だ(現実に従属する虚構という)二項対立的構造を脱しきれていないとも言える。
ともあれ、どういう話に持って行くのか楽しみな作品である。
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