友人のブログで「プロフェッショナルの定義に関する一考察」という記事を読み、うなずくところが多かったのでそれについて書こうと思う。
まずはイチローと松本人志のプロフェッショナル観についてだが、「プロフェッショナルとは何か?」を聞かれ、前者は「ファンを圧倒し、選手を圧倒し、圧倒的な結果を残す、ということです」と答え、後者は「素人に圧倒的な差を見せつけることじゃないですかね」と答えたという(筆者未見)。
これらを引用した上でプロフェッショナルについての考察を始めたことからすれば、著者はそのような考え方に共鳴するところ大だと考えられる。ただ気になるのは、以下で述べられている議論はプロフェッショナルの「定義」というよりはむしろ「私のプロフェッショナル観」もしくは「私が思うプロフェッショナルの要件」と表現した方が適切ではないかということ。例えばプロフェッショナルの流儀に出てくるその他様々な人間のプロフェッショナル観を引用したり、それに対するインターネットなどでの反応を取り上げ、ある程度のサンプルをもって「プロフェッショナル」について語るか、もしくはいくつかの著名な辞書での説明を羅列し大体こういうものらしいというのなら「定義」としてわかる(だから、「共感」の話を始める時に私は辞典における定義付けから入った)。確かに著者もいくつかのプロフェッショナル観を取り上げてはいるのだが、それらを批判的に見ているのは単にイチロー、松本人志的な視点に寄っているからでしかなく、他の観念が自分の強調するそれよりも妥当性を欠いている根拠は極めて弱い。だから例えば、「なぜ仕事で金をもらう者たちはみなプロフェッショナルだという観念はあなたのそれよりも妥当性を欠くと言えるのか」という反論を論破はできない。ただ、「そういう考え方もあるが、私は別の考え方を支持する」という話になるだけだ。ゆえに、「様々なプロフェッショナル観があるけれども、私はイチロー、松本人志的なそれに近い観念を持っている」とするのが最も実態に近い表現であるように思える・・・
という問題はあるが、前回直接話した時に「あの話題は議論を呼ぶだろう」という趣旨のことを言っていたので、まあわざとそうしたのかもしれない。さて、そういう私的な話(趣味の問題)に限定した上で言えば、私はイチローや松本人志のプロフェッショナル観には大いにうなずけるものがある(まあ私には「人生の師」だと思っている存在などいないが)。要するに、圧倒的な能力を持ち、発揮し、圧倒的な結果を出す卓越した、あるいは隔絶した存在をこそ(一般人とは違う)プロフェッショナルと言うのだ、ということである。
別にプロフェッショナルという名称にはこだわらないが、親しみやすさなどほとんどどうでもいい問題で、圧倒的な能力を持つ者だけが敬意を払うに値する、と私は考えている。例えばロバート=デニーロの圧倒的(すぎる)演技力、ラーメンズの演技力・構成力などがそれに当たるが、逆に両親や学生時代の先生について感謝はするが尊敬はしない理由も同じだ(とはいえ、前に取り上げたインテルのサネッティのように、必ずしも能力オンリーではないが)。
ちなみにこれは、整形に関する記事で「芸人が結婚しようがひき肉にされようがどうでもいいなどと逆効果と知りつつ書きたくなる」と書いたのと通じるが、ここで言いたいのは、あたかも芸人やらアイドルが自分の知り合いかのように考え行動する連中がいて、まあそれ自体は別にプライオリティの問題もあるし好きにすればいいが、ことに整形やらスキャンダルの話になると引きずり降ろしの精神が前面に出てきて、しかもそれを妬み・引きずりおろしだと考えもしないのはいかにも横並び的な精神性だねということである。まあムラ社会にはお似合いの振舞ではあると思うが、こういうものに対する飽き飽きした感覚はDEATH NOTEに絡めて書いたジャンクとオブジェの話に通じるだろう。
とまあこういうわけで、イチローや松本人志のプロフェッショナル観は今まで書いてきた記事の補助線として有効に機能する。もっとも、先にも触れた妬みの話などは実際にはもっときちんと考察すべきで、例えば四民平等、「一億総中流化」幻想が与えた影響はどんなものか、江戸時代以前のムラ社会は実際にイメージ通りのものなのか、といった問題が山積みしてはいるが、それを調べるのはまだまだ先の話になるだろう。今はただ、もし「プロフェッショナルの定義」の記事を11/2の会話の前に読んでおけば、もう少しは実りのある議論もできただろうにと苦笑するばかりである。
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