先ほどアメリカのコンテンツ産業の戦略に関連する覚書を載せた。そこで改めて思うのは、日本のそれは全くのところ物足りない、ということだ。
もちろん、コンテンツ産業を介した「帝国主義」を手放しで肯定するつもりはない(だから、前の覚書ではレッシグに言及している。そもそも、「幸せの意味を失くして」のような行為も厳密に取り締まられるようになるわけだ)。しかしながら、そのような手口を思いつきすらしない(アーキテクチャをどのように活用するかという発想がない)というのはまた別の問題ではないか?だから、既得権益による旧態依然とした産業分野へのしがみつきに加え、想像的貧困のためにそもそも今までの自明性から離れられない、という状況になっているように思える。
もちろん、日本国内で独自の動きがないわけではない。例えば川越を舞台にした「神様はじめました」は電車の車内広告(動画)でも取り上げられているが、そこでは題材となった実際のご神木やらが出てきて地方経済との結びつき(ありていに言えば町おこし)が意識されている。また鳥取・島根は、すでにある「ゲゲゲの鬼太郎」や「名探偵コナン」などのコンテンツを使って人を呼び込もうとしている。
しかし・・・俺にはどうもそれらの効果が非常に疑わしく思える。まあ前者は「聖地巡礼」やらの効果が多少はあるのかもしれないが、後者はたとえば電車にアニメの絵をデカデカと載せているものとかを見ると、使用料はどれくらいで、一体(原作にせよ電車の使用人数にせよ)費用対効果はどれくらいなのか?と思わずにはいられない(もちろん、例で挙げた鳥取・島根については苦肉の策だろうというのもわかる。今時出雲大社で新しく人は呼び込めないだろうし。そう言えば我が故郷の「くまもん」は相当な人気を博して売上にもかなり貢献しているらしい。あのけったいな代物がどうしてそこまでポピュラーになったのかいささか謎だが)。作品としての評価はともかく、地方分権が進んでいく(いかざるをえない)現状にあって、利用できるものは何でも利用する、ぐらいの発想は必要不可欠であろう。
良くも悪くも、著作権を更新してライセンス料で儲け続けるディズニーは、多額の寄付によってアメリカ政府や経済と密接に結びついている(そのあたりの情報については、『底抜け合衆国』を始めとする町山智浩の諸作品を参照)。また、前に日本と韓国のコンテンツ産業を比較している人が言うには、韓国は日本の八倍の資金を投じているとのことで、またアイドルの売り出しにも国が介在している部分が大きいのだとか。そう言えば、宮台真司は韓国の人口が4500万しかいないため、市場を成り立たせるためには外側を意識せざるをえない、という事を書いていた(裏を返せば、日本は国内で1億を超える顧客がいるため、それである程度まかなえてしまうということであり、またそれ故に外部集客という志向が弱くなりがちだ、ということだ)。さて、たとえば「ワンピース」が売れることによって日本経済にどれほどの還元があるのか?このような言説に対する不快感に何も考えず身を任せれば、日本はまさに「職人の国」としてその生涯を終えるだろう。ま、別に経済的植民地になろうが好きなことやってる方がいいって言うのなら、勝手にすればいいと思うけどねヽ(。∀゜)ノ
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