この前「美醜・女装・マンヘイティング」を書いて「かわいければ男だろうが女だろうが私は一向に構わん!」との宣言を確認し(笑)、かつそれが単純に多様性の容認には結びつくわけではない、という話をした。そこでは「紙幅」の関係もあって暗示するにとどめたんだけど、この話を掘り下げる機会がなさげな予感がするんで、ちょいと付け加えておきますよと。
結論。ちょっと前に話題になった岡崎京子『ヘルタースケルター』、そして安野モヨコ『脂肪という名の服を着て』を読みましょう。え、終わり?wまあもうちょい説明するとだ、前者にはマスイメージというかアイコンの問題も絡んでくるけど、それだけに「痩せたい・綺麗になりたい」という願望が個人的なものではなく社会的な関心事(というよりは問題と呼ぶべきレベル)であることを示している。つまり主人公「りりこ」一人を悲劇のヒロイン扱いしてもしゃーないって話だ(ちなみに『pink』なども、登場人物の環境への対し方・振る舞い方は違えど、描いているものは同じだ)。そのような身体を求める環境はどのようなもので、どのように成立しているのか・・・
そのような視点に立つと、「江古田ちゃん~『猛禽』と適応~」で紹介した「殿方」がなぜ主人公から軽蔑の眼差しで見られるのか、ということも理解しやすくなる(=自分もまさにそのような環境を作り出している一人という自覚の欠落)。また、「江古田ちゃん」に書かれた「敵視」は、それがより鬱屈したレベルになると、「接吻」の主人公になるわけだ(ただ「接吻」は今回のビジュアルの問題から外れるし、ゆえに『脂肪という~』の同僚たちの振る舞いと同一視するのは行き過ぎだけども)。
さてこの場合、環境に適応できない者の問題なのか、それとも環境自体に問題があるのか?あなたどう思いますか?
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