沙耶の唄の名曲~狂気と平穏の中で~

2011-05-10 20:03:12 | 沙耶の唄

およそ一週間前に「沙耶の唄:虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」という記事を書き、作品の受容のされ方について「キャラの現前性」と「境界線の曖昧さ」を指摘した。でまあその続きをと思ったんだが、結構準備に手間取りそうなので他の方面から進めていくことにしましたよと。

 

先ごろ「鬼哭街」と「腐り姫」を取り上げたが、「沙耶の唄」もまた名曲揃いの作品である。演出上不快な曲と穏やかな曲で構成されているため全体の統一感は前二者に及ばないが、片方があるからこそもう片方が引き立つのも事実。つまりSilent SorrowSinSong of Sayaは名曲なんだが、それが印象付けられるのもSchizophreniaのようなアンイージーにさせる曲があってこそなのだ。またエンディング曲の「沙耶の唄」、「ガラスのくつ」ともに歌詞も含めてすばらしい出来映えで、エンディングのカタルシス(後者は喪失感)を表現しきった名曲だと思う。なおこれは有名な話だが、曲名は全て(沙耶の?)Sで始まる。昔「ガラスのくつ」だけ例外と的外れなことを言って恥をさらした事もありをりはべりいまそかりとw。

 

ところで、リンクを貼った曲には外国人のコメントも多いが、彼らも含め「境界線の曖昧さ」をきちんと理解しているらしいのは喜ばしいかぎりだ(「日本的想像力の未来」における宮台真司の言葉を借りれば「オフビート感覚」の理解)。ただ、「否定的な投票が数多く寄せられた」というKOJIDARTHなる人物の

“Wait...you know Fuminori was like crazy right? Because that was some messed up shit he pulled. Even for love that was his best friend even if he saw him a monster that means he cares nothing about how people really are.”

というコメントもまた重要な、極めて重要な指摘だと思う。というのは、沙耶の側に引きずられてそちらを全肯定してしまうのは、極端な話「麻薬常習者の通り魔」を肯定するのと同義だからだ(※)。少し別の視点から言うと、沙耶は異物じゃないかという人々と、そうは感じられないと主張する人々がいるわけだが、結局はそのどちらも「真」なのであって、問題はむしろそれでもなお沙耶の側に同情的になってしまうのはなぜかという点にこそあると私は思う。そのような問題設定をして初めて、「善ー悪」や「正常ー異常」の境界線など恣意的なものにすぎないということを納得させうるし、作者がインタビューで言ったような「理性もまた狂気」という話に繋がりうるのではないか。まあこの辺は「ヒトラー最期の12日間」やら「いい人」問題も絡めつつ書いていければと思う(なお、沙耶とのコミュニケーションを欺瞞と片付けるのは短絡的な思考であって、それと他の人物とのコミュニケーションの区別がつけ難いと「フラグメント110:ディスコミュニケーションの不可避性」で述べている)。



私が初めてこの作品をプレイした後、一週間ほどかけて

・人類が存続する必然性などどこにもありはしない
・「侵略は悪」というのは人間のリクツにすぎない
・しかし沙耶の側を全肯定するのは欺瞞だ
・もし沙耶のビジュアルが醜女だったりしたら同じ反応はしないだろう(承認の問題は変わらないにしても)

などと何とはなしに考え続けた結果、まごうことなき傑作だと評価するに到ったことが思い出される。


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