マニュアル、多様性、空気読み

2022-08-08 11:31:31 | 生活
「マニュアル」とか「マニュアル化」と言うと、画一的で多様性を否定するという印象が強いかもしれない。しかし、そう単純でもないなと思った事例を聞いたので少し紹介したいと思う。
 
 
4月に中学時代の友人3人と飲んだ時、ひとりが今は教育系のNPOをやっているという話だった。その職場で障碍者雇用をする中、大きな問題の一つは、これで通じるだろう考えた指示書やらが、そこに解釈の余地が残っていると、相手が判断できずにフリーズしてしまう(仕事が進まない)、といったケースが少なからず生じていたという。そこでケーススタディや意見を取り入れつつ、極力解釈の余地が生まれにくい手引書を作り出したんだそうな(そんで今も工夫改善中と)。
 
 
なるほど「ちょっとそれを横にどけて」と言われて「ちょっと」が一体何センチなのかをいちいち気にしないように、指示書の内容に多少解釈の幅があっても、何となく行間を読んで理解・実行してしまうということは少なくない。しかし、受け手の側に幅があるという前提に立った場合、(程度問題とはいえ)解釈の幅をどれだけ減らせるかということが共有・協働においては非常に重要なこととなる(この共有の困難さについては、たとえば以前取り上げたADHD黒井先生の動画などが入口としてわかりやすいだろう)。というわけで、障碍者の方や日本語ネイティブじゃない人と一緒に働いていくことを通じて、マニュアルがむしろ「包摂」の役割を果たすものになったという話だ(もちろん、とにかく冗長なだけのマニュアルを作ればかえって人が読まなくなって意味をなさなくなる、といった事情も考慮する必要がある)。
 
 
冒頭でも述べたが、マニュアルとはあくまで効率化のための手段であり、どうしてもそこでは個性や多様性が抑圧されがちだという印象を私は持っていたが、むしろ多様な人との共生という観点で積極的に評価できる部分もあるというのを認識したというわけ。『正欲』における批判にもつながるが、多様性の是認をお題目的に訴えるのは容易でも、その先に齟齬と諍いが生まれ、バックラッシュとなっていった事例など腐るほどある。ゆえにこそ、いかに共生していくかという方法論や法整備、つまり「共生の作法」が必要なわけだが、その一つの具体的取り組みとしてマニュアルってのも有用な場面があるんやなあと大変興味深く感じた次第(ちなみにこの話は、『反逆の神話』で触れた信号機の色に関する取り決めとその必要性・有効性の話にもつながる。まあ「人が各々自発的に行動することが最善で、それで社会は機能するのだ」なんて発想は、あまりにこの世界の複雑性と多様性を甘く見積もりすぎている、という話)。
 
 
逆に言うなら、この事例からは「空気読め」のハイコンテクスト文化が多様性とあまり相性がよくないことも再認識できる。それは閉鎖的共同体なら大過なく機能するが、開かれた社会においては単なる「同質性への甘え」となってしまうのだから。
 
 
そしてついでに書いてしまえば、「『共感』の称揚がなぜ危険か?」という話もここに帰結する。より正確に言えば、「わかりあえないことから出発しない共感」はなぜ危険か?ということだが、それは要するに「わかるはずだからわかるのが当然」という無根拠な思い込みと同じなのだ。「あくまで、私たちは全く違う存在のはずなのに、わかることがある」というのが正確な理解なのではないか。つまり、「わかりあえないことから出発しつつも、理解しようとすることも理解を求めることも放棄せずにいこう」という見地に立ってはじめて、「共感」はクローズドな排除の論理ではなく、オープンな理解に開かれるための端緒を準備する。そして私がみる限り、「共感」の重要性を訴える言説で、管見の限り私たちの超えようのない差異と徹底的に向きあおうとしたものは見たことがない。だから、そんなものを(特に日本のような相互が同質性が高いと認識するハイコンテクスト文化で)称揚したら単に排除を正当化するだけだんべ、と「共感」の称揚を批判してきたわけである。
 
 
以上、マニュアルと多様性、共生の作法という水と油のように思えるものが有効に結びつきうる事例と、そこから反射させる形で「空気を読め」的なハイコンテクスト文化がいかに多様性と相性が悪いかも述べたところでこの稿を終えることとしたい。
 
 
 
マニュアルの危険性の一つは、前例踏襲主義的な思考停止を招くことである。日本に関してよく指摘されることだが、手段が目的化して前例踏襲主義がしばしばはびこる(頭が悪いヤツはなにも考えず従い、頭がいいヤツはそれに抗うより上手く乗っかった方がメリットが大きいと考えあえて乗る。だから、仕組みが上手くいってる時はノイズが少なくて強いんだけど、上手くいかなくなると自浄作用が効きづらくてズルズルいく→失われた30年)。よってマニュアルは、常にその目的が問い直され内容がブラッシュアップされていかなければ、すぐに陳腐化してただの思考停止の重しと化す。その意味で、共生の作法として解釈の余地がほとんどないマニュアルを作ったとて、それで万事解決ではない、という点も注意が必要だろう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« TS☆レボリューション | トップ | フェティシズムの輪廻 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

生活」カテゴリの最新記事