君が望む永遠:主人公の性格と作品への評価について

2006-02-03 15:02:25 | 君が望む永遠
率直に言って、鳴海孝之を感情移入の対象と捉えるのは誤りである。例えば、第一章の告白シーン、第二章で水月を殴るシーンを思い出してもらいたい。これらは、普通に考えればありえない内容と言える。というのも前者は、付き合う子を選ぶというエロゲーの性質に反するし、後者は話の文脈から言って明らかに孝之に非があるように描かれているからだ。このシーンを見ると、単に表現が稚拙or何かしらの意味があると推測できるのだが、孝之の気持ちが細かく規定されていることなどから、君望自体が孝之を感情移入の対象としないというメッセージを発しているのだと言える。よって、文をしっかり追ってプレイしていたのなら、「感情移入できない」などという「寝言」は表れようはずもないのだ。

また孝之を批判した後で「私がこの状況にいたら~する」というレビューも時として見られる。批判だけ言いっぱなしにしないという気概は買うが、残念ながらその発言が表現された記号、メッセージを読み取れなかった、という事実を如実に表している。作品の表現・演出という段階において、およそプレーヤーの考え方など塵芥程度の重要性しかない。何故ならこの作品の展開が、鳴海孝之が様々な人に対して抱く感情という要素によって強く規定されているからである。つまり、展開の必然性について考える際、「鳴海孝之にとっての必然性」で評価すべきであり、しょせん三年間にわたる彼(ら)の苦しみなどをわからない我々が自分の論理を語ったところで、物語をより見えにくくするだけのことだ。勘違いしないでもらいたいが、私は孝之に対して嫌悪感を抱くな、などと言っているのではない。

彼の行動に対して感じる嫌悪感などといった生理的・感想的な領域と、物語としての必然性という批評の領域は別にしなければならない、ということを指摘しているのである(これについて私の言いたいことがよくわからないという人は、「カラマーゾフの兄弟」におけるドストエフスキーの序文を見れば、少しは理解してもらえるかもしれない)。とにかく、主人公の人物・行動原理に対する不快感を、作品の演出・表現の拙さと同一視してはならない。重要なのは、両者の間に必然性があるか否かという視点なのである。

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