フラグメント29:共感と洞察、同調圧力など

2008-03-12 01:48:25 | フラグメント
自分のこれまでの共感に対する見解については、「キャラ的人間関係と共感」の中ですでに批判を述べた。ここでは、かつての見解を構成したフラグメントを載せることにしたい。


<共感と洞察力>
共感という認識よりも洞察の方が大事だ。両者とも内容が誤っている場合は当然あるが、その時前者は「裏切られた」となり、後者は「読みが甘かった」となる。相手の話なのに、どうして相手の行動という事実よりも自分の認識の方が優先されるのだろうか!かように、共感とは、相手に寄り添っているようで実は自己中心的な態度なのである。


<日本人は情緒的か?ラベリングと数学>
例えば、映画で郷愁を誘うシーヲがあり、「懐かしい」と感じた二人がいたとしよう。彼らは違う出身地である。同じか?あるいは片方は具体的に故郷を思い浮べたのではなく、何となく懐かしい感じがしたとしよう。それは同じか?同じなのは、あくまで「懐かしい」というラベリングの点でしかない。しかし実際には、各々異なった過程でそこに到っているのである。もちろん、ラベリングであろうが同じであることには変わらない、と言う人もいるだろう。ではここで、87という数字を考えてみたい。過程は様々。87人と87円を同じとは思うまい。しかし87という数字は同じ。それは機械的な見解である。


共感において同じなのは、(往々にして)感情のラベリングした結果に過ぎない。というのも、同じように感じていると証明はできないからだ。ところで、そのようにラベリングされたものの内実は、一般的な人の言うように、しばしば「よくわからないもの」でしかない。実はそれゆえに、ラベリングされたものを自分と同じだと解釈することが可能になる。ここでは、ラベリングの過程が千差万別という当たり前の事実がしばしば忘却されてしまうのだ。自分の感覚が、あるいはラベリングの過程がいかに混沌としているかを知っているなら、そんな暴挙に対して慎重になる。つまり濫用はその混沌への無知、ないしはそれからの逃避を意味している。


<自然なる共感の行く末>
自動的な共感と認識としての共感。現在重要とされているのは後者(反射奨励は白痴)、身体性はますます喪失され、価値観はますます多様化する。その中で、自然な共感という考え方は通用しない。無意識の同一化傾向、同調圧力。努力の末にたまたま共感できる可能性がある、と考えた方がよい。


知っているつもりで理解できていなかったことは非常に多い。例えば、日本が異文化を作り替えて受容する話はよく聞いてきたが、それを理解したのは共感の問題から過程の不在・捨象を考え、その具体例・一般性を探している時であった。
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