無期懲役の判決が出た時に犯人が万歳三唱したというので話題になった事件だが、犯人のそれまでの来歴を見ると、通院の否定しかり、嫌がっていた部活に強制的に入らされること然り、教育格差と分断について述べた記事でも触れた「ノーマライゼーションの地獄」という言葉がそのまま当てはまるように思える。そうして起こった承認の枯渇や居場所を奪うことが、こういった「無敵の人」を生み出すという構造である。
両親の行動を見るに、周囲からの評判を懸念してというのもあるだろうが、「自分の子供は普通だ」とか、「自分の子供を普通にせねば」という「善意」に基づいて行動していたのではないだろうか(こう考えると、母親が犯罪者の更生活動に熱心だったという特徴がそのまま陸続のものとして理解しやすくなる。ちなみにこの「善意」への苛立ちを歌ったものが前にも触れたAdoの「うっせえわ」である)。
このような見立てが正しいとすれば、ノーマライゼーションの強要がなぜ起きがちなのかも比較的容易に理解されることだろうし、よほど意識していなければ、そのような性質が変化するのには膨大な時間がかかることだろう。そしてその間、社会がひっ迫して実のところそこから「外れる」ことが生じやすくなっている今日では、「無敵の人」がますます生み出されやすくなり、社会は己の振る舞いを変えられないツケを様々な形で払い続けることになる、というわけである。
もちろん、犯人のようなあり方を全肯定すべきというのもまた愚かだ。しかし、社会のバッファを幅広くとるような構造転換と、それを是とするようなエートスの習得がなければ、日本社会の未来は単に経済が衰退するとかいうレベルを遥かに超えた、地獄の様相を呈することになるだろうと述べつつこの稿を終えたい。
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