神の可能性:人類、地球の存続にも関連して

2006-12-26 21:12:36 | 抽象的話題
※本来は、ミスチルの「さよなら2001年」の分析を終えた後で書くつもりだったが、突如気が向いたのでこちらを先に載せることにした。

神が、あるいは何かしらの超越者がいる可能性を私は否定しない。問題は、既存の神観念が「可能性」ではなく「願望」でがんじがらめにされていることだ。いったいどうして、神が善だと、あるいは悪だとわかるというのか?実のところ、「人間が作り出したものである以上、人間の願望が投影されるに決まっているではないか」と言えば、問題はそこで終わる。また実際にはどちらでもいいと思っているから、結局「底なし沼」の領域に過ぎないのだが、まあ題材に言及してみるのもたまにはいいだろう。なお、「神=善」という観念の方がわかりやすいと思うので、こちらについて述べてみる。


神が善であることについて、ある人はこう言うかもしれない。「人間たちが今生き続けていること自体が神の恩寵であり、神が善なる存在であることの証明ではないか」と。ならば私はこう言おう。「全員を等しく『地獄』とやらに叩き込むために、神は人間を生きさせている可能性は無いのか?」と。我々が、神の閑暇を紛らすために、『地球』という舞台の上で踊り続ける人形ではないとどうして言い切れるのだろうか?


少々ニヒリスティックに聞こえすぎただろうか?だが、「人間の可能性が無限大」ということが負の方向性についても当てはまるのと同様に、神もまた、(いるかいないかも含め)その可能性は無限大なのである(あえてくり返すが、いるかいないかはどうでもいい)。しかしその事実は、「願望」によって忘れ去られる。人類が存続「すべき必然性」や地球が存続「すべき必然性」が(少なくとも今のところ)証明されざる「願望」に過ぎないという事実が忘れ去られるのと同じように。


「滅んでほしくない、滅びたくない」という気持ちと、滅びるべきではないという根拠・必然性があるのとは全く、そう全く別の問題だ。そして神の可能性もまた然り。そういうことである。
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2 コメント

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神とは、 (うに~)
2006-12-26 22:52:12
超越者であるが故に、人間に無関心という考え方もあるよ(笑)
そしてたとえ関心があっても、神は超越者だから、双方の言い分を正しく理解しており、片方からの視点に過ぎない、"正義"や"悪"を幻想に過ぎないと笑うのではないだろうか…
というのが私見です(笑)
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拠り所の虚構性 (ギーガ)
2006-12-29 23:58:06
放置プレイってやつですねwそれもありえると思いますよ。

「双方の言い分を正しく理解しており~」以下の部分は、言い分にあくまで(感情的な部分も含めて)合理性や論理性、必然性がある場合に限られるように思いますが、まあ合理性や必然性は人間が作り出したものだし、また仮に真理であるとしても、それが「神」にとって善悪の基準になったり意味があるものかというのは別問題かもしれませんしね。

さらに言えば、よく人間の最後の拠り所になる「倫理」というのが、そもそも「神」とやらに通用するのかどうか…と疑問に思うことはあります。まあ俺が「人を殺してはならない」理由を「社会契約上の合理性による取り決め」という多少醒めた眼で見ている部分があることも関係しているのかもしれませんがw
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