これまで諸々取り上げてきた俗論としての日本宗教論を見ていくと、以下のような欠落を指摘することができる(各々の下段にはそれについて言及した代表的な記事を載せた)。
1.歴史(的変化)という観点
2.共同体という観点
3.国家権力(社会システム)という観点
4.アジアという観点
これらは論考としてなら即座に脆弱さとなるが、「なぜこのような傾向が色濃く見られるのか?」という視点で分析すれば、非常に有益な情報を抽出できるように思う(昭和天皇に歴史を教えた白鳥庫吉ではないが、「神話そのものは歴史的に正しくなくても、神話からその時代の人々が世界をどのように理解していたかがわかる」というのに似ている。またこのようなアプローチは、マンハイムが『イデオロギーとユートピア』で述べた知識社会学と連なるものでもある)。
例えば1ならナショナリズムやロマン主義。2や3なら宗教を「個人の内面の問題」のみとして考える傾向(ファシズムの起源を分析したフロムが、『自由からの逃走』の中で近代を宗教改革と宗教の個人化から書き始めていることなどを想起したい)。4なら何度か指摘している「脱亜入欧的オリエンタリズム」である(もちろん、島国根性的視野の狭さも影響していると思われるが)。
以上をまとめていささか乱暴に表現すれば、そこには「日本が近代化にあたって抱え込んだ要素」と、「それにより獲得した歪んだ自己像」がそのまま表出していると言えるのではないだろうか(ここでも、「べき」と「である」の区分けが非常に重要な意味合いを持っている)。
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