前回の覚書は、日本的自己責任論と「忍耐=美徳」観の共通点についてだった。これは、両者とも社会的悪習の隠蔽や存続を促してしまうという点で、「失われた30年」などにも絡む極めて問題の大きい傾向であることを述べている。
今回の覚書における、最初の<東洋経済の記事>はそれを別の視点から書いたものになる。またここで記した内容が、自分が個人のレベルではリバタリアンだが、社会レベルでは決してリバタリアニズムを採用しえないと考えている理由にもなっている(「『ロリータ』と『1984年』:人間を支配する残酷さの発露について」)。
次の<マンシュタイン>は、ごく簡単に言えば、愛国心が政権や権力者の否定に結びつくことは当然ありえるわけで、それのない愛国心は単なる権威主義に過ぎない、という話(まあ「右」とか「保守」ってのが権威主義や体制ベッタリと認識されがちな状況では、想像もつかないかもしれないが)。
最後の<無題>は、おそらく最初の二行とその後ろで別の話だと思われる。最初の二行は、毒親的発想(いきすぎたパターナリズム)の否定と同時に、それと対極に見える短絡的自己責任論=ひたすら個人の責任に帰してその包摂に興味を示さない態度もまた、むしろ還るべき場所なきゆえにドロップアウトを恐れ、過度なリスクヘッジとしがみつきをもたらして、社会の閉塞をかえって促進するという話をしている(あり体に言えば、過干渉も過放任もアカンてことですな)。後に書いたものとしては、数々の毒親批判の記事や、「自己責任論が生んだゼロリスク世代の未来像」などへつながる。
で、その後の「矛盾したように見える内容を書くこと」は、ハイコンテクスト過ぎて自分でも意味が取りづらいが、これは先の話と関連する「個人=リバタリアン、社会=リベラリズム・リバタリアンパターナリズム、世界=カオス」という三層構造のことを指していると思われる。要するに、私の記事の傾向として、個人レベルの嗜好などは極めて自由放任的で愚行権すら認め(ただしおもしろ半分で犯した迷惑行為の代償などをきちんと払っていただくことは言うまでもないが)、また世界レベルでも「別に生きる意味などない(というかわかりようがない)」と書いているのに、社会レベルでは包摂の話をよくしているのは、極めて矛盾したものに見える可能性が高いよね・・・という点を踏まえ、それがどういう認識から成り立っているのかを書こうとしたものだろう。
簡単に説明すると、個人レベルでは他者との合意不可能性ゆえにリバタリアンで、かつ世界は人知を超えるためにカオスという理解ではあるけれども、社会で他者と生きていくためには調整の仕組み=共生の作法が必要ということで、そのすり合わせのための方策としてリベラリズムやリバタリアンパターナリズムを個人・世界とは別立てで重要視している、というのが大まかな説明になるだろう(ちなみにリベラリズムは端的に言えば近代的な人権思想に基づいた社会的包摂を重視する仕組みで、リバタリアンパターナリズムは仕組み=アーキテクチャーそのものを破壊したり、社会の共生に極めて大きな悪影響を及ぼしかねない人間たちを生ー権力的にコントロールするためのアプローチ・手段である。二つを併用すべきと考える理由は、価値観が多様である以上、こちらの想定を超えた動きをする人間が出てくることは当然ありえるため、善意に期待して弱者やマイノリティを保護していれば社会は上手く回るはず、などとは全く思わないからだ)。
例えば、「なぜ人を殺してはいけないか」という命題を、世界レベル=人間社会を超えた範疇で説明・証明することはできない(そもそも、人間社会の中ですら戦争など殺人が合法化された場面が多々存在してきたわけで、この歴史的事実がその普遍性をすでに否定している)。ただ、あくまで社会レベル=人間社会の範疇で言うならば、「それを認めてしまうと社会が成立するのが困難になってしまうから、それを悪とする規範の元、社会を運用するのが合理的である」ということになるだろう(実際、少しでも気に入らなければ人を殺していい社会になってしまうと、リスク管理のコストが上がり過ぎて、社会の運営に大きな支障をきたす)。
類例で言い換えると、「人権」というものを科学的に証明は決してできないし(それを否定したいなら、無人島で生存権を主張したら勝手に食料や身の安全が保障されるのか、試してみるとよい)、ゆえに不変の真理でも何でもないのだが、それを否定してしまえば共生において大きな支障をきたすので、お互いにそれを尊重する形で社会は運営すべきである、という話(小賢しい人間にありがちなパターンとして、そういうった擬制が所詮は擬制だと気付いた時点で無意味とイコールだと結論づけてしまいがちだが、そういった類の連中は、その擬制によって自己も社会もどれだけの恩恵を受けているかを全くのところ等閑視してしまっている)。
ただ結果として、こういった話をヴォルテールやローティなども取り上げつつ社会契約やリベラルアイロニズム、プラグマティズムなどを元に展開すべきところを、なぜか「自己の統一性の欺瞞」という近代批判と個人レベルの話にルートを間違えたため(苦笑)、この先広げようがなくなって止まってしまったものと思われる。
2019/01/18~20
〈東洋経済の記事〉
人手不足と賃金。外国人労働者受け入れの正体。
「現場」をわかってないというコメント。うちの会社でも利益が出たら人件費上げらる、とやたら言う。
まあこれも「正論」。要は企業側のロビイング→企業の利益になる法案の可決。貧乏人より金持ちの申し出を聞いた方が政治家は利益になりからね(種子法も同じ。国内よかアメリカ様・企業の言うことを聞いた方がメリットがある、もしくはそう思い込んでいる)。で、企業の方は自己の利益を追求するし、「なにわ金融道」じゃないが、苦しい企業は劇的なシステム変更より明日の手形。
つまり、今までのシステムを変えずにどう現状を乗り切るかという発想に必然的になるわけで(たかの友梨の社長発言)。それが集合するとはい法案の出来上がり、というわけ(私の場合、日本の凋落に目を向けず、これからも途上国から労働力はどんどん来るという発想が実に楽観的で、かつ傲慢さそのもの→「愛しのアイリーン」で描かれたものに見え、吐き気を催すのだが)。
この状況の作られ方は、二次大戦の状況を思わせるのでよく観察しときーや。「今さらやめられない」ってヤツね。ここでタチが悪いのは、「その状況を作り出している連中が、必ずしも悪意で動いてるわけじゃない」ということ。
というのも、とにかく現状をどう破綻させないかに一生懸命なだけ、というケースがしばしばあるからだ。これは彼らを擁護したいのではない。前に『夜と霧』と絡めて書いたが、家では良き父が、一度命ぜられれば、ユダヤ人だから、ロマだから、身体障害者だから、という理由で人を殺せる。端的に言えば、「いい人だから」というのはその人が巨悪をなさないという理由にはならない。そう認識してしまう人たちは、勝手にそれをユニバーサルなものと思い違いをしているのだ。
労働者側。自己責任論と社会的包摂でバトって上にいかない(小泉改革を弱者こそが歓迎したことを想起)。フィンランドのように社会構造の仕組みを教える必要あり。
コンビニはそんなにいらんやろ。ビジネスチャンスと削りあい。フランチャイズ。本社はロイヤリティ収入があるので、増えようが私は一向に構わん!と。で、そうして市場に任せた結果、人手不足などの社会的不利益が生じているとしたら、それは良き事なのか?
不動産投資は自己責任、それはわかる。契約書に印をついたのは自分なのだから(そもそも営業をかけてくるような物件が、相手の得をするものなのか?って話だ。営業電話に対して、かつて自分の父親は「そんなに得なら、あなたが買えばいいんじゃないですか?」と言ってよく相手を黙らせていたが、要するにそういうことである)。しかし、そういうやり口を放置し、苦しい地銀と の共犯関係。中間層がさらに縮小・崩壊するのを自己責任として放置するのは、社会的に善き結果をもたらすのだろうか?
ドラッカーの言葉を噛み締める。
とはいえ、社会的に手当てをすればそれで全てが解決すると思うな。前にあるのは棘の道。そこに今の装備のまま突っ込むか(遭難動画)、立ち止まって準備し、せめてダメージを最小限に食い止めるしかない。
FXの個人投資家が多い。ビットコイン。
〈マンシュタイン〉
ロンメル。連合国から畏敬の念を持たれていた数少ない人物。
タイプ的にはダウーに近い印象。政治志向はしない?
愛国とは何か?忠誠とは何か?を考えさせられる人物。ヒトラーに批判的。ナチ党員でもない。しかしなぜ彼は前線で戦い続けたのか?大ドイツ再興のために。ヒトラー政権の合法性とそれへのロイヤリティがどれほど素かは疑問の余地がある。むしろ関わりたくない。クーデターでヒトラー以外が政権を取っても、それ以上の質が担保できる保証はない。キール軍港の反乱とヴァイマル共和国。それへの苦々しい思い。
完全無欠な名将なぞいない。ナポレオン、ハンニバル、アレクサンドロス。何かしらのことでしくじっている。
ドイツのため?ドイツが誤った道へ行っていたと認識していたのに?プロイセン軍人としての矜持と限界か。
二二六事件。昭和恐慌、世界恐慌、満州事変、是清の改革で32年に脱出。農村恐慌。農本主義者の怒り。是清の改革内容と二二六の思想性は要調査(とばっちり)。
天皇に忠誠を誓う。ならば天皇が殺せと言えば、自分の親も殺すのか?
そうした を経ない愚か者は、忠誠のなんたるかを語る資格がない。
〈無題〉
シュガーラッシュオンライン。愛娘が旅に出たいと言うなら、その意思を尊重し送り出すのが親の役目。ただしこのことは覚えておいてほしい。傷ついた時、戻りたくなった時には、いつでも君の帰る場所はあると。
矛盾したように見える内容を書くこと。そもそもなぜ、矛盾はありえないと思うのか?そこに何のエビデンスが?西田。「自己の統一性」という近代的イデオロギー。歴史意思のような一定方向の措定?ロールシャッハの記事で前から言っている、近代の欺瞞の一つ。
複雑性を前面に押し出すとわかりにくいんで、単純化して伝える方が都合がよいというのと、実際に単純であることの間には大きな懸隔がある。
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