毒親、というか人を支配したり振り回す人間の典型パターンとして、「他者性の欠落」がある。つまり、家族(子供)を自分のもののように勘違いするために、やたら干渉したり、相手の事情を考えずに自分の都合で振り回してしまうのだ(この件はVtuberの息根とめるやなまほしちゃん絡みで『「毒親」の正体』のような著作にも触れたことがある)。では、SNSなどに子供の話を投稿するのはどうだろうか?
これまで、それは(顔を出さないといった配慮は前提として)基本的に微笑ましい行為とみなされてきたように思える。少なくとも、そうやって子供のことをあれこれ記述するのは、愛情の表れと概ね考えられてきた。そのような理解を踏まえ、人は公の場に記されるやらかしも含めた様々な喜怒哀楽を見て、時に笑い、時に涙したわけである。
では、そのような状況は、果たして子供が望んだものだろうか?特に小さいうちはわざわざ確認を取ることもないだろうが、ある程度の年齢になっても、力関係の非対称性から強く拒否することが難しい場合もある。そんな中で、自分が楽しいから子供も喜んでいるはずだ、と無邪気にも思い込んでいたのではないか?だとするなら、それは本人の意思を尊重しようとせず、あたかも自分の延長のようにみなして疑わないタイプの毒親と一体何が違うのだろうか・・・
というようなことを、作家西原理恵子の娘が親によるアウティング行為を含め毒親として告発したとの記事を見て、考えたりした。私は西原理恵子について詳しく知らないため好意も悪意もなく単純に興味のない存在だが、こういった行為を社会的にこれからどう評価していくのか、という点については興味を覚えた次第。
まさか家族に全て許可を取らなければアウトともならない(そう設定するのは現実的でないし不合理)だろうが、それならどこまでの行為なら「許される」のか?という話でもある。少なくとも、自分の子供のことだし多少おおらかに暴露とかしちゃってもいいよね?というスタンスについては、今回の件が一石を投じることになるかもしれない(しただの一時的自粛=「空気」で終わるかも)と述べつつ、この稿を終えたい。
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