仕事で締切が連続する中、軽いネタがないけれども色々溜まっている重いネタはまとめるのに時間がかかる・・・という中で今回は『日本の貧困女子』という本の紹介をチョイスしてみた。
冒頭の画像にある本の帯で概要は示されているが、北関東や沖縄といった地方とその社会構造を取り上げつつ、毒親、雇用状況、排除、風俗、不倫と張りぼて家族などをいくつかの聞き取り事例から描写しつつ、日本のシステム的限界について言及している(地方の閉塞については、山梨県甲府市を描いた映画「サウダージ」なども参照。なお、身の回りこそが社会全体と誤認してしまう構造については、「『共有できていないという事実』を共有できていない、これを分断という」を参照)。そしてそこでは、官製貧困やいわゆる「三つの貧困」、申請主義を取る行政の仕組みの問題なども浮き彫りにされているのである(なお、この本は2019年11月に発行されているので、コロナ禍とそれによる変化については当然取り上げられていない点には注意を喚起したい)。
この本を取り上げた理由は、今まで触れてきた北関東、毒親、風俗、セーフティネットの機能不全、情緒的反発ではなくシステム理解と活用の重要性などなど様々なテーマに関連するからだが、この本というかこういったテーマと向き合うにあたって、「0か100の発想を捨てる」「ベターを目指す眼差し」が重要だと最近つとに感じる。
どういうことか?まず、無謬な社会は存在しない。どこにでも必ず問題は生じうるわけで、ゼロを目指す発想やシステム構築は非現実的ではない。次に無謬な人間も存在しない。だから被害者をやたら神聖化するのも実態と乖離するし、逆にその反発(逆張り)であの被害者にはこんな欠点や落ち度があったというあら探しをするような行為は、セカンドレイプを発生させたり手当てすべき問題に向けられるはずの力をあらぬ方向にそらしてしまいかねない。このことをよくよく理解した上で、残酷さ・過酷さのより少ない社会=ベターを目指すにはどういう施策が必要なのかを考える必要がある、ということだ(さらに言えば、いま述べたような「0か100」の発想に基づいたあら探しをする人間がゼロになることもまたないから、そういう言論に社会的手当てをキャンセルされないような体制づくりが必要である)。
という「べき論」まで述べたところで、今回描写されている事例を見ていくと、その背景となる社会構造が容易に変わるとは全く思えないというのが実感である。すなわち、少子高齢化も含めた日本全体の経済的衰退の中、聡い人間(たち)、もしくは地方から排除された人間(たち)は東京などの都市部に出る。そうすることで地方社会はあたかも「蟲毒」のような構造となり、半世紀程度の時間をかけてどんどん消滅していくのではないだろうか(ちょっとした躓きがすぐに奈落へと直結し、一度奈落に落ちたならばほぼ二度と這い上がれない、というカイジの鉄骨渡りにも似たベリーハードモードの社会環境になる、と言い換えてもよい)。日本において負の斥力(問題点がある現状を改良するのではなく忍従すべきと考えるメンタリティ)が強いことはすでに何度も言及してきたが、そのようなあり方がどのような「地獄」を惹起するのかという事例を私たちは様々目撃していくことになるだろう。
さらに言えば、こうして経済的余裕を持った心ある人は地方を見限り、さらに日本自体を見限って海外に流出していく結果、すでにひっ迫している地方から底が抜けて日本社会の衰退はさらに加速する。しかし、日本の政治は基本的に「選挙で勝つ」という数年単位の短期的な目標にフォーカスするため長期的展望に本腰を入れて取り組むインセンティブが働きにくく、結果として日本全体としてのシステム変更は極めて遅く期待ができない以上は、個人や家族の資質にかなりの程度依存する「運ゲー」社会が到来することだろう(こういう文脈を踏まえれば、色々と問題はあるが「親ガチャ」という表現は言いえて妙である)。
以上述べたことが、私がしばしば「日本に明るい未来はない」と断じる理由である。これに対する短期的な方策は「いつでも海外に出れるようにする」だが、とはいえその資本がない人々はどうすればいいんやろね?という問題は当然ある。となれば、やはりセーフティネットや教育の仕組みを改良しつつ、少しでも鉄骨渡りの鉄骨の幅を広げるようにするしかないやな、と思う次第である(インバウンド経済に頼る途上国モデルとか、あるいは変化した環境への適応の仕方といったことを論じるのは、その先の話)。
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