無意識に支配され、それを理屈で正当化する人間?

2022-05-23 12:30:00 | 感想など





覚醒した状態なのであれば、意識→行動という流れで人間が動くのは当たり前で、そうでないのは反射くらいだ、と思われるかもしれない。


しかし、様々な実験を通じてわかっていることは、人間が行動→意識という流れで動くものだ、ということである。


さらに言えば、分離脳の実験から判明したのは、人がその行動の説明を求められた時、それを正当化するためにしばしば誤った理屈づけ(後づけ)をするものである、ということだった。


本編ではより詳細に説明されているが、これは非常に興味深い知見である。というのも、そのような認知科学の発見は、サブリミナル効果や、マックの椅子に代表されるような生ー権力的統治のように、「いかに人間の自由意思を毀損しないように、人間をこちらの意図したようにコントロールするか」という観点で様々導入されているからだ(これに対置されるのが、パノプティコンによる監視を通じた規律訓練型の仕組みで、学校や軍隊はその代表例である)。


もう少し踏み込むなら、ジョナサン・ハイト『なぜ社会は右と左にわかれるのか』やキャス・サンスティーン『熟議が壊れるとき』でも取り上げられた、熟議の限界にも繋がるだろう。ハイトは理性を像の乗り手、感情を像に例え、像の乗り手に理屈で語りかけるよりも、像に訴えかけねばならないと書いたが、先の行動→意識という知見に照らせば、いささか極端な言い方をすれば、対話相手のあり方(会話内容のみならず、身だしなみ・話し方など含む)によって承認・反発の結論は会話内容の詳細な吟味の前に概ね決まっており、そこに理屈が後付けされる、ということである(たとえば快・不快や受容・拒絶といった生理的嫌悪感に基づく非言語的結論が先に存在し、そこに理屈づけがなされ、正当化が行われるという構造。これはヒュームが述べた経験論・帰納法的思考への懐疑にも関わる)。


その他、プレゼンなどで人間が受容できる情報のうち言語内容はわずかで、視覚情報や聴覚情報が大半を占める、などの話は枚挙に暇がないので、ここではいちいち取り上げない(「人は第一印象が~割」とかもその一例だ)。また、このような傾向は「恋は盲目」のような言葉で経験的にも知られたものと言ってよいだろう。


このように考えてみると、意識に関する知見は、人間理性への信頼と議会制(熟議)民主主義があくまで西欧近代の信仰(というのが言いすぎなら「ある特殊な条件設定」)から成り立つものに過ぎないと気づかせてくれるし、分断とたこ壺化が進んで共通前提が極小化した際にそれが機能しなくなるのは当然であり、またその状況で新反動主義や加速主義のような人間の動物性に着目した発想が出てくるのは必然と言えるだろう。


そこに危機感を持ち棹挿そうとするなら、単に熟議の大切さを訴えるような行為は愚の骨頂で、今述べた人間の根元的な性質や、それゆえの近代市民主義社会の成立困難さに立脚し、システム的な変更も視野に入れていかねばならない(たとえばルソーによると、熟議型民主主義が成立可能な規模は人口二万人である)。


そして現在、熟議型民主主義の成立困難さに歯止めをかける特効薬のようなものは存在しない。マトリックスのような世界は極端にしても、地域や階層による速度の差こそあれ、世界は新反動主義的な世界の方向に(善悪は別にして)向かっていくと私が考える所以である。

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