前回、呉座勇一の『戦国武将、虚像と実像』について紹介したが、そこで呉座が批判した「歴史的裏付けのない教訓話を史実のように語る」という問題行動は、「保守」主義者の言説にもしばしば当てはまる。
具体的に言えば、
①過去が実態としてどうであったかを検証することなく、しばしば思い出語りとしての過去をそのまま理想化する
②その歪曲した過去を軸に教訓を導きだして喧伝し、あまつさえ他者に押し付けようとすらする
という二重の誤りを彼・彼女らはしばしば犯しているのである。
真に過去と向き合う態度を重視しているならば、自身の直感や経験、あるいは主張したいことに都合の悪い事実も取り上げるはずだ(そして大抵は、複雑な要因や利害の存在、あるいは多様な動機付けなどから、単純な図式や善悪を論じるのが難しいことに気づかざるをえない)。
にもかかわらず、それが欠落しているということは、過去や歴史という名の威を借りた権威主義者に過ぎないのではないか?私はそのような疑いの目で見ているのである(歴史的裏付けのない教訓話や「江戸しぐさ」のようなものがなぜ流行するかと言えば、過去という「権威」に基づいて人に強制しやすくなるからであろう。なお、そこまで意識的でなくても、現在に対する不満や違和感から「昔は違った・良かったはずだ」という「隣の芝生は青い」的反応から検証を経ずに直感と矛盾しない結論を導きだしてしまう、というタイプの誤認も少なくないと考えられ、むしろそれゆえに誰しもが犯しうる誤謬と言えるように思う)。
私は人間理性に対し懐疑的という点で、バークのような保守主義、つまり過去を参照しながらの漸進主義を重視して革新主義を危ぶむ姿勢には親和的な部分を持つが、他方で「保守」的言説に対しては一貫して批判を続けているのは、以上のような理由からである。
というわけで、呉座による歴史小説や大衆的歴史観の問題点・危険性に関するまとめが、歴史を話しているようで実はただの(検証なき)思い出語り・歴史騙りをしているという点で様々な言説にも当てはまるなあ🤔と思い追加記事を書いた次第だ。
なお、以下は元々前掲書のレビューとして書こうとしたが、かなり長くなりそうになったので破棄したものである。
(以下原文)
天海=明智光秀(笑)、「忠臣蔵」と赤穂事件。先日発売されたばかりのこの書をお勧め。
信長、道三、光秀、秀吉、三成、信繁(幸村)、家康。
評価の変遷。公権力、民衆、世相。歴史小説は固定だが、歴史は更改されるものだ、という話。
現代的に理解するより、現代からは理解に苦しむ発想や事態。それに目を向け、当時の世界観を知るとともに今を相対化することがおもしろい、と私は考える(例えば藤野裕子、近世的共同体と経済観、桜井英二、国質や郷質、自力救済と共同体)。なので、虚構で飾らないとおもしろくならない、という考え方にコミットしない。人間ってオモロー!😀となる。
同時代、江戸、戦前、戦後、実態。彼らは愚かで、我々は自由かつ賢明だろうか?そうではない。たとえば戦前の日本軍について、技術力はあったものの資源がなかった、というような説を聞いたことはないだろうか?太平洋戦争最初の快進撃が根拠。実態はそうではない。日中戦争により財力でも人的資源でも中途半端になった日本は、技術力も なままアメリカなどとの戦いに突入した。ゆえに、砲兵やエンジンなどについて、未熟な部分が多々見られる。にもかかわらず、そのような観念。戦後の技術大国日本のイメージ、ジャパンアズナンバーワンの経済ナショナリズムが、その幻想を強化した。まさに世界観そのものに関わる。
呉座の結びの言葉。まさにその通り。p302歴史小説から、p304これに勝る喜びはない。
原典を読む価値。どうしてもわかりやすい、あるいはすぐに役に立ちそうな、エポックメイキングだったものがクローズアップされがちである。しかし、その影に隠れがちな前提、注目されない部分にヒントがある場合もある。抽象的なのでルクレティウスの『物体の本性について』を例にあげると、たとえば「」という有名なフレーズを元に、近代合理主義や科学的思考との類似性を強調したくなる。しかしその周囲に目を向ければ~などといった表現が見てとれるのであって、到底我々のよく知る~と連続するとは言いがたいことがわかる。それを無視して類似性にのみ言及するのは、世界の神話の類似する部分にのみ着目し、全てが一つのアーキタイプ(アカシックレコード)から発生したかのように結論を飛躍させるのに似ている。
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