「タコピーの原罪」が描き出すもの:コントラストによる悲惨さの強調と、鬱屈した社会の病理

2022-01-08 17:45:00 | 本関係
 
 
友人に勧められて「タコピーの原罪」というマンガを少し読んでみた。
 
 
 
 
悲惨な少女の様と、ミスマッチなまでに明るいタコピーのコントラストに脳がバグりそうになるが、そういうギャップが少女の凄惨な日常(迫害や精神状態)をより強く意識させる構造になっている。
 
 
空回りしながらも少女を救わんとするタコピーの言行が微笑ましく見えるが、それも束の間で悲劇的な結末を招来してしまうという痛ましい流れは、「原罪」という題名的からしても、計算されたものであろう。
 
 
私はここから「魔法少女まどか☆マギガ」を連想するとともに、この世界構造はタコピーを「VR」やら「メタバース」やらに変えれば、あるいはそのまま未来の日本社会なのかもしれないと思った。
 
 
どういうことか?
逼迫する日本社会において、不安を軸に連帯するどころか、自分より弱き者を迫害して生きる糧とする様が日に日に強くなってきている(生じた問題に対し、批判や検証による解決よりただ攻撃を目的とするような行動はまま見られるが、それは鬱屈や不安をとにかく吐き出したいという背景に基づく)。
 
 
この作品では生活保護がモチーフとして登場するが、継続的な経済衰退と急速な産業構造や社会変化の中、明日は我が身であるかもしれないのに、否そうであるからこそ、不安から来る差別と迫害の昏い情熱に突き動かされ続けるのである(例えば作中に登場する人物のうち、果たして何人が安寧のまま成人できるだろう?少女の不遇な生活を嘲笑っていた人間も、10年後には親の失職で外国人相手に身体を売るような生活になっているかもしれないのだ)。
 
 
そんな中で狂わずに生きるには、もはや共同体崩壊と社会関係資本の欠乏が進んでいる以上、薄っぺらであろうがキャラ的人間関係にしがみつくか(承認を求めてひたすら空気読みに汲々とする)、それが無理ならVRやメタバースといった(今使われているのとは違った意味での)「オルタナティブファクト」しかなく、それも選択しないなら自裁あるのみ、というわけである(あるいは昨今注目されるところの「拡大的自殺」か)。
 
 
年明けには、経済衰退のみならず、それが社会関係資本の欠乏とのダブルパンチゆえに日本の未来は極めて厳しい、という記事を書くつもりでいたが(デュルケームの「自殺論」や斎藤環の「承認という病」、佐々木チワワの「『ぴえん』という病」などは全てそういった問題意識で読んでいる)、ちょうどよい作品を教えてもらったので、そのイントロダクションとして紹介しておきたい

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