筒井康隆と言えば、私が最も感銘を受けた作家の一人です。大学時代の友人からは「筒井康隆の作品を見て、お前(=筆者)の思考がちょっとわかったわ」と言われたほどですから、私との親和性は極めて高いものであろうと予測されます。しかし意外にもというか、私が最初に彼を知ったのは『ゴーマニズム宣言』の中で断筆宣言に関する描写で出てきた時でして、実際に作品を読んだのは大学に入ってからのことでした(ちなみに最初に手に取ったのは短編集の『笑うな』で、次が『文学部唯野教授』)。ともあれ、それ以降は筒井作品を狂ったように貪り読み、およそ目にしたことの作品はないと思われるほどでした。かかる人物が「創作の極意と掟」を開陳しようと言うのですから、その言に耳を傾けないわけがありません。
でだ、詳しい内容は動画でのやり取りを見てもらうとしてな、俺がいささか驚いたのは、「筒井康隆にも掟があったのか?」なんつーボケたコメントがあったことだ。なるほどあいつはスラップスティックを始め多くの実験的小説を書いてきたから、そこに縛りなどねーし、手法やスタイルすらねえとか思ってやがるのかもしれん。
そのように考えているのであれば、ありがちな錯誤だと私は思います。たとえて言うなら、「お笑い芸人はバカ」(もしくは単におもしろい人)という発想と同じだからです。笑いとは、ズレによって生じます。逆に言えば、ズラすためには準拠枠を適切に理解していなければなりません(準拠枠が違うからこそ、お国柄によって笑いの傾向に違いも出のです)。そしてその上で、どうズラすと笑いになるか、すなわち笑いを生じさせられるかまで適切に理解し体現できるようになる必要があります(というのも、ズラし方によってはホラーにもなったりするため)。これについては、「パッション」のハイテンション(さわやか→ウザいの落差)、「カンニング竹山」のキレ芸、「ブルゾンちえみ」のビジュアルとキメ台詞のギャップなど枚挙に暇がございません。
だからな、笑いを生業にするヤツらはある程度の把握能力・表現能力を兼ね備えている必要があって、それが直感的なものか、理論的なものであるかの違いが存在するだけなんだよこの能無しの脳無しの悩無しめが(ちなみに後者の代表は「アンジャッシュ」や「ラーメンズ」)!
では肝心の筒井康隆ですが、彼の作品としては、「関節話法」、「原始人」、「敵」、「残像に口紅を」、「虚人たち」、「ビタミン」、「旅のラゴス」など、数はもちろん文体や表現技法だけに絞っても枚挙に暇がありません。では、過去にスラップスティックが多いのは筒井康隆が人格的に壊れていたり未成熟で、最近は老成して技法的な作品が増えたということなのでしょうか?
そんな薄らバカは試しに「関節話法」を聞いてみやがれ。これは一見出落ちのようなタイトルで、特異な話法を紹介して終わることもできなくはねーんだ。しかしそこに、発声メインのコミュニケーションを行う地球人が関節話法を習得・会話するというギャップを描くことで、笑いが起こるんだよ。そして終盤では、極めてシリアスな場面なのにどんどん支離滅裂になっていく会話内容のギャップのせいで腹がよじれて死にそうになる、というか死にやがれ(ここでの言語チョイスは一体どっから来たのか?と首を傾げたくなる。今でこそ、グーグルの検索機能を逆用して打ち込んだ文字で最初に出てきた言葉だけを繋げて支離滅裂にするといった手法も取れると思うが[てか俺もやったことがある]、「せん〇り流れてほういほい」とかの魔鬼死夢を手書きでどう思いつくのか凡人の俺には理解の及ばぬところだ)。
というと何だか勢いで笑わされているように思うかもしれませんが、実は同じ言語習得ギャップに関する作品として彼は「日本地球ことば教える学部」を書いています。こちらは宇宙人が日本語を学習する場面の話なのですが、例文が極めて一般的とは言えない内容で、しかも教師の解説が輪をかけておかしな方向にいっているという作品になってるのです(ラーメンズの日本語学校を連想するとわかりやすいでしょう)。そしてこの作品の末尾に外国語学習用の教材を参考にしたとあるように(まあこれはわざと入れた注でしょうね)、日本人の「This is a pen.」(Yeah, I know...以外にどんな答えがあるのかw)など外国語学習で非一般的な文が大真面目に学習されていることを土台とした「あるあるネタ」なのです。ただし、そこに教師の間違った解説(文化的無理解含む)によるブーストと、ニクコケ・ポケなさい・マケなさいなどの用語といったそれらしさ&おかしさを倍加させる小道具を組み込んでいる点はさすがと言えるでしょう。
話を「関節話法」に戻そうか。
筒井は後々状況がおもしろくなるよう序盤は慎重にセットアップをしてて、しかもそこが間延びをしないように、上司=猫人間・俺=犬人間としてその描写にメリハリをもたせてるんだ。ピコス語がどうとか、関節話法成立の背景とか、関節話法によるプラス面の描写とかな。こういう適度にバカバカしく、適度にリアリティを持たせるバランス感覚がすばらしいんだ。似たような技法は「マグロマル」を始め諸作品にみられっから、こいつはSF作品を多く手掛けてきた作者の面目躍如ってところだろうよ。
以上見てきたように、筒井康隆は小説という舞台で表現のバーリ・トゥードを繰り広げた類稀な存在と言えます。しかし「何でもあり」=「何も考えずにやっている」という等式は成り立ちません。私達の日常の行動を考えてもらえばわかると思いますが、むしろ何も考えずにいると行動というものはパターン化・最適化するものなのです。そのようなルーティンを成り立たせている私を、社会を構造化するメタ視点を持ち、またそれをどのような表現方法を用いれば受け手に響くか、というスタンスを貫けばこそ、多様な優れた作品を発表させ続けてこれたとみることができるのではないでしょうか?
これに関連して俺が思うのは、果たしてどれだけの人間が己の立っている場所を引いて見てるのかってことだ。ここでは歴史・宗教・旅行・ゲーム・性癖・・・と様々なものを扱ってきた。たとえばエロゲーの記事も多いが、それをやるユーザーを揶揄する者は少なくないし、それを無批判に耽るのがアホなのは全く同意だ。はっきり言えば気持ち悪いと思うね。しかしじゃあ、お前さんはどれだけ自分のことを解体・分析できているのかい?音楽の趣味、映画の趣味、大事にしている信条、ある対象への評価etc...最近は歴史やそこで構築されたものの意味や背景をよくよく調べようともせずに、日本スゲーとか日本が好きとか言ってる不安神経症を何とかしたい麻薬中毒患者ばかりみてーな言説状況が増えてるが、俺は目くそ鼻くそに思えるぜ。「汝何者なりや」・・・その問いを突き詰めたことのない人間が、他人を嗤うなどへそで茶が沸くってもんさ。
嗚呼、こんな理屈っぽいことばかり言ってると主知主義に間違われてしまう、あちきはそんなのイヤでありんす。
(参考文献「鬼仏交替」)
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