「皆婚の時代はすでに終わった」という話はもう言い古されており、当時のような仕組みに戻ることはもちろん不可能である。その理由は、「お見合い」や「寿退社」といった、「恋愛弱者を上げ底して、結婚という制度に流し込むシステム」が共同体の解体やコンプライアンスの変化などによって社会から失われており、かつ復活の見通しは全くないためだ(ついでに言えば、「結婚の減少→少母化」こそが出生率低下の原因であり、逆に言えば結婚している母親からの出生数は減少していないので、子育て支援だけしていても今の状況は解決しない)。
ゆえに、今ではもう「それで、どうすんの?」と次を考える段階に来ているわけで、荒川和久の本であれば、『結婚滅亡』(2019)よりも『「居場所がない」人たち 超ソロ社会における幸福のコミュニティ論』(2022)の方がよほど現実的かつ重要だろう(荒川自身もそういう見地に立って後者を書いていると思われるので)。
さて、「居場所がない」と言えば、それは孤独とも強く結びつくわけだが、こちらで語られるホストに入れ込む背景にも同じことが言える。この点については、宇都宮直子の『ホス狂い 歌舞伎町ネバーランドで女たちは今日も踊る』などを読んでみると参考になるだろう。
ここで書評を詳述はしないが、最後に出てくるパパ活やナイトワークをしながらホス狂いをしている人たちの「年齢問題」というのはまさしくその通りであって、何も手を打たなければ今後10~20年で大きく問題が顕在化するであろうと予測される(「アラフォーで自分は年収が300万くらいなのに年収800万の年下男性を相手に要求する」といった女性がネタ的に取り上げられるが、こういう手合いが50代・60代になり、さらに後続がそれなりの数量産されるとなれば、社会福祉などの観点からも笑ってばかりいられない。例えば中村敦彦『熟年売春 アラフォー女子の貧困の現実』などを参照。
ただ、仮にホストやその売掛を禁止するだけであれば(もちろん現状大いに問題があるのでそれ自体はやるべきなのだが)、単に「心の穴」を埋めるための祝祭空間や仕掛けが失われることにしかならず、それこそドラッグや宗教、怪しげなセミナーなど、代替物にのめり込むだけのことと思われる(まあルールが厳格化された上で、コンカフェやガールズバーのような一種「解毒」された形で消費するようになる、という辺りが最もソフトランディングなのかな)。
例えば動画で言及されるジャニーズ(アイドル)へハマり込んでいる人たちもそうだし、ソーシャルゲームの廃課金者、Vtuberに生活費を削ってスーパーチャット(投げ銭)を送る人など、こういう依存・嗜癖的行為は何にでも起こりうるものだからだ(『僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられ方』などを参照。そしてこれも何度となく書いているが、それをカリカチュアして描いた作品が「Needy girl ovedose」である)。
なお、あえて動画で言及していないのかは不明だが、居場所がなく、心の穴を埋め合わせる方法もなくなった時、京アニ放火大量殺害事件や川崎児童殺傷事件のような、「無敵の人」が誕生するという点もおさえておきたい。
この分断と孤立の問題について、単に「弱者救済」ぐらいの意識しかないのであれば、それはあまりにも浅薄な理解である。というのも、社会的包摂というものは、同時にそのことで「メンバーたちの脱社会化=暴徒化を防ぐ」という意味合いも持っている点が重要だからだ。ゆえにそれを「強者からの恩恵」のようにみなし、「弱肉強食」とか「自己責任」などと言っていれば問題など存在しない=それを考えなくていい、とでもいうような態度は愚の骨頂と言える(ただ、「単身世帯とペットニーズの増加」の記事でも触れたように、ある種のwin-win的性質を持たせた関わり方を模索することは重要だと思われる。例えば地域の清掃や子供の見守りのボランティアへ高齢者に関わってもらう、という具合に。退職後の趣味が見つからないのなら、そうして感謝されることを新しい「趣味」、やりがいとして見出してもらうというわけだ)。
まあ治安がどれだけ悪化しようと、家に鉄格子でもつけ、外出する時は常に防刃ベストを着用するので問題ない、ぐらいの認識でいるのなら、話は別だが(なお、そのように個人で対策できると割り切った場合でさえ、治安の悪化によってインバウンド需要に悪影響が出るといった側面があるので、やはり公共性・戦略性なき幼稚な発想と言えるのだが)。
続く
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