ひぐらし:プレイ時期のズレとバイアス

2008-06-20 03:01:50 | ひぐらし
罪滅し編や皆殺し編以降にひぐらしを始めたプレイヤーに見られる同時代的視点の欠落というものは、歴史認識やバイアスといったより一般的なレベルにまで広げることができる。


最初からループや寄生虫の話を知っている人たちは、それが存在するかという問題から推理しなければならなかった人たちの状況を理解できない。それは、機械文明に育った人間が、機械のない生活や機械を発明していく苦労を知ってはいても理解することは難しいのと似ている。あるいは、当時の人々の行動や慣習が非合理的に思えるのも、単に歴史的事実や科学の進歩という結果を知っているがゆえのバイアスであることが少なくない。この場合、当時の人々について理解できているとは言いがたい。しかも我々は、知っていることと理解することをしばしば混同しがちであり、そこから先を考えようとしないことも少なくない。このようにして、我々は過去の遺産を蓄積するどころか、過去への無理解を撒き散らしながら生きてるのだ(※)。


ひぐらしは、その掲示板が壮大な思考実験場として人間の認識方法などについて様々考えさせてくれるまたとない場を提供してくれたが、プレイ開始時期のズレによる過去のプレイヤーへの無理解もまた、歴史認識やバイアスへと繋がる認識のあり方そのものを考察する格好の材料となっているのである。


今回は「最初からホラーゲームだった」という見解を取り上げたが、皆殺し編の発売直後よく聞かれた(今は知らないが)発言として、「ひぐらしは物語だ」というものがある。「物語」という言葉はひどく曖昧だが、おそらく「あれこれ細かく整合性を考えて推理するのではなく、基本的に出てきたものを受け入れるべきゲーム」といったニュアンスで使われていたのだと思われる。しかし、この推測が正しければ、少なくとも二つの点で大きな問題がある。一つは、各シナリオを「重ねて見る」というひぐらし側が提示する視点にそぐわないこと、もう一つは、登場人物たちのやり取りやミスリードの演出に対して鈍感になる、ということだ。そうすると、各シナリオの共通性と相違性、さらには梨花の「予言」感動的シーンにミスリードを入れるなどの作りこまれた演出・セリフについて深く考えなくなってしまうが、それはひぐらしをよりよく理解する方向へ導くとは思えない。ゆえに、そのような見方に私は賛同できない、と言っておこう。



余談だが、目明し編以前からプレイし、「人為100%」と息巻いて推理していたにもかかわらず、皆殺し編の記述であっさりと立場を変える姿は、「鬼畜米英」と言いながら戦争が終わるとあっさり言を翻した人たちを連想させる。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 皆殺し編レビュー批判3:「... | トップ | フラグメント37:君望、ズバ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひぐらし」カテゴリの最新記事