皆殺し編レビュー批判3:「最初から…だった」は成立するか?

2008-06-19 20:47:14 | ひぐらし
先の「続皆殺し編レビュー批判:虚ろになった方向性」では、ひぐらしを「最初からホラーゲームだった」などと評価することについて軽く触れました。今回は、そういった見解の問題・分析を行っていきたいと思います。まずは、そういった見解に対する批判を最初に述べた2006年8月12日の記事を引用してみましょう(携帯からのアップなので省略が多いため、[ ]部分を補ってあります)。


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結果を見た後でそれを正当化する要素を抽出していくのは誰にでもできる(歴史学でもこのような思考様式に縛られることは少なくない)。これはひぐらしにも当てはまる。発売とほぼ同時期にひぐらしをプレイしてその方向性を考えてきた人々の営意を、皆[殺し]編の結果から批判するという行為にあたる。私も[喉を掻き毟る]薬や推理の仕方などに関して「人為100%」には批判的に言及してきたが、そういった際「その時点でその考え方は妥当であったか」という通時的、同時代的視点を忘れないようにしたいと思っている[cf.人為100%で推理して失望した人へ]。そうでなくては、ひぐらしの評価は一面的なものになるだろう。
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これは、皆殺し編に対する批判的反応の原因分析を行った記事に対して「ひぐらしは最初からホラーゲームだった」というようなコメントをいただいたことがあり、以上はそれに対する批判的返答となっています。これだけだと、抽象的で何が問題なのか今ひとつ伝わらないかもしれません。私の主張を要約すれば、「ひぐらしの方向性が最初から明らかであった」と断じるのなら、他の見解を論破し、自分の見解の正当性を論証する必要がある、ということです。


このように書くと、おそらく難しい話でも始まるのかと眉をひそめる方がいらっしゃると思いますが、その反応自体がある意味で目明し編以前のひぐらしプレイヤーが置かれた状況に対する無理解を象徴していると思います。というのも…と続けたいところですが、これはすでに書いた話なのでそちらを参照してください(「今頃賢しらに「物語」や「オカルト」を論じる者に死を」、「結果からの正当化(逆算)と通時的な推測」、「ひぐらしは最初から推理ゲームであった」。なお、簡潔にまとめたものを<補遺1>として最後に載せました)。


今そのことをここに載せないのは、単に既出だからではありません。その書き方ゆえに、最も私の主張を伝えたい相手、すなわち罪滅ぼし編や皆殺し編というひぐらしの方向性がある程度見えてきた段階でプレイを始めたため推理の前提から考えなければならないという状況が理解できない人たちには届かない、と思うからです。


その無理解は、次のような例えで表現することができます。現代の人に車やガス、水道のない生活を思い浮べてもらったとしましょう。大半の人が「大変な暮らしだっただろう」という感想は持つかもしれませんが、それでも「過去と現在にどのような認識の違いを生み出したか」といった深い部分の考察には到りません。それに対して「昔は車もガスもなくて大変だった…」と繰り返すのは、むしろ相手が引くだけのように思われます(能力的なものというよりはバイアス)。単に「知る」のではなく「理解する」ことが重要<補遺2>だと認識してもらい、かつその段階にたどり着いてもらうにはどうすればいいのでしょうか…


と考えた結果、ひぐらしとSFの例を持ち出すことにしました。
ループ、羽入の由来、時を止める…などによって、ひぐらしにSFの要素が多分に含まれていると言っても異論は出ないでしょう(一応、「痕」や「腐り姫」のアナロジーも指摘しておきます)。しかし、それを鬼隠し編や綿流し編の段階で証明することは可能なのでしょうか?ループは目明し編と綿流し編の類似性とズレでようやく説得力のある議論が可能になっただけですし(梨花の「予言」はループの証明にはならない)、羽入はそもそもいるかいないかが問題だったことを考えれば、答えは否と言わざるをえません。ひぐらしにSFの要素が入っているのは紛れもない事実ですが、当時それを証明するのは不可能だったのです。


ひぐらしが最初からホラーゲームだったと見なすのも同じことです。まだ納得いかない人もいると思うので、今度は金田一耕介シリーズで考えてみましょう(戦闘力の問題でも触れたことですし)。金田一シリーズがホラー物か推理物かと聞かれれば、ホラーの側面を指摘しつつも、多くの人が推理物だと評価すると思われます(もちろん、単純な二項対立は成立しないでしょうが)。そしてその根拠を聞かれれば、幽霊といった人為を超越したものが登場しないから、という理由をやはり多くの人が上げるのではないでしょうか。この推測が正しければ、「ひぐらしは最初からホラーゲームだった」と主張することは、「ひぐらしは最初からホラー・オカルト中心だと読み切っていた」と主張しているのと同じことになります。では、推理よりもホラーが中心だったと言える根拠は何でしょうか?私にはそれが存在するとは思えません。


それが論理的に証明できなければ全ては結果論であり、推理のために論理的整合性を求めてテキストを読み込み、それゆえに皆殺し編の真相に憤ってひぐらしを批判したり離れていった人たちを論難する資格はないのです。いささか厳しい主張のように感じられるかもしれませんが、ひぐらしの症候群やルールXYZを受けて、うみねこの掲示板では「そもそも何を推理するのか?」という視点が十分意識されているように思われます(館という空間、見えているものは正しいのか、人為と魔法etc...)。


であれば今こそ、「ひぐらしは最初から~だった」というような硬直した見解から自由になる絶好の機会です。そうして結果からの正当化というバイアスを相対化して同時代的視点に立ったとき、ひぐらしの新たな演出意図やおもしろみが発見されることでしょう。


<補遺1>
特に目明し編までは、ひぐらしにおいて「人為vsオカルト」という問題が切っても切り離せず、推理の内容そのものだけでなく推理の前提さえも考察の材料になっていました(今でもよく覚えていますが、当時は「私は人為100%で推理しています」という立場の表明から記事が始まることはしばしばありました)。そのような当時の状況を無視して、証明もなしに「ひぐらしは最初から~だった」とだけ言っても単なる結果論に過ぎず、それをもって他の見解を批判する資格はありません。しかし、他の見解を批判するとはどういうことでしょうか?そのあたりは本文中でもリンクを貼った「人為100%で推理して失望した人へ」と「古手梨花の「予言」について」を見ていただければと思います。

また、ひぐらし自身がジャケットの「惨劇に挑め」とか、主人公の「誰かこの謎を…」といった文言、お疲れ様会、掲示板などを使ってプレイヤー達を推理へ引き込んでいき、それがブレイクの大きな要因になったことを忘れるわけにはいきません。これは、ひぐらしが意図的にそういう要素を取り入れていた、ということの証左です。そういった演出(意図)まで無視して「最初からホラーゲーム」だとか「物語」と言い、推理的な批判を退けるのは、他のプレイヤーはもとより製作者さえ蔑ろにした願望以外の何者でもありません。


<補遺2>
「知る」と「理解する」の違いについては以下のような例が参考になります。
あなたは昨日初めてSさんに会い、二言三言やり取りをして別れました。その人について、

A「あなたはSさんを知っていますか?」
B「あなたはSさんを理解していますか?」

という二つの問いが発せられたとき、大半の人がAについては頷く一方で、Bの質問に対してはよほど自信過剰でなければ肯定的な返事をしないでしょう。ここから明らかなように、「知る」よりも「理解する」方が深いのだと言えます。しかし私達は、しばしばこの「知る」を「理解する」と同列に扱ってしまい、物事への深い考察へと到る道を拒絶してしまうようです。

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