先日こたつ布団とカーペットを出してようやく越冬準備を終えたばかりのムッカーですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?
そんなお蔵出しの季節ということで、記事についてもあれこれ延び延びになって埃をかぶっちまった者たちを陳列していきたいと思います。ア゛ア゛!?年末で忙しいから手を抜いてんじゃないかって?そんな疑いの目で人を見る奴は・・・
電気ウナギに噛まれて死ぬがよい(゚∀゚)アヒャなどと暴言を吐きつつ、これまで沈殿した諸々のジャンクをドンドン吐き出していきたいと思いますですよ。
てわけで次が原文なのですが、まあいつも書いてるヤツですな。元々は「明日へ羽ばたいて」の最後に付け加えようとしたものだが、非常に辛辣な調子になるのでこれだけカットし、結局そのままになっていたものだったと記憶している。
つーか、国家という大きな枠組みを語りながら、自己責任を平気で主張したりもっと小さな共同体やシステムのことを論じようとしない様を見ると、見事に日本という国は地域共同体の解体と個人主義が進んだのだなあと感じ入る次第である(「国のことなんてどーでもよくて自分のことにしか興味がない」とかじゃなく、国家のことを語りながらその実「結果としてプラスになるのはどのような言説やシステムか」という公共性の欠落した発言・行動が垂れ流されている辺りが病膏肓に入るという言葉を思い起こさせる)。そんなに国家のことが気になるってーのなら、路傍の石よりどーでもいい「オメーの同情できない理由」を垂れ流すんじゃなく、それを解消するシステマチックな方法でもちったー考えたらどうなんだと思う。まあシステマチックに考えたりコストをかけるより、死ぬに任せた方が合理性があるって説得的なプレゼンができるんなら話は別だけど。ただしその場合は、自分や自分の家族がそうなった時も当然その基準により判定されることを受け入れなければならないし、またそのような言説が相模原事件的なるものと繋がりうると自覚して語るべきだとも思うがね(ただ賢明な読者諸兄はお気づきのことと思うが、そも合理性というものに基づいて人間の生存・存続の価値を図る場合、人工知能が発達するにつれて死すべき人間の数が等比級的に増えていく可能性を考慮に入れねばならない。そこまで見越して「まあ俺もそうなったらとっとと死ぬけどね」という端的な覚悟の元に言説を構築してるならいいんですがね。「フリーライダーまじ死ねよ」という「ノリ」で言ってるだけなら、そう遠くない将来お前さんも俺もそうなるかもだぜw)。
[原文]
援助した方が社会的にプラスかどうかで考える。投資の効率。還元率のこと。これが真に公共的な態度であって、「自分の時は~だった」と語り、それを相手にも要求するのは、ただの思い出語りで社会的なマイナスを産み出し続けているという点で非公共的、より直載に言えば「売国奴」的ですらある。ちなみに財源がない、というのは援助が社会的にプラスであることを認めた上での実現方法の話であって、それはレイヤーが違う議論だ。
努力の問題にする輩。昔はもっと大変だった。なるほど今の医療技術は使わずに老人は死ぬに任せ、スマホのような新技術も否定してなら、その言説は正しいがね。そうじゃないなら興味が持てない、あるいは「自分に同情心が湧かない理由探し」をしてるようにしか見えない(という風に、一般化した時に容易に理解できるであろうその奇妙な偏りにどうして気づけないのかが私には理解できない)。社会的利益になるかどうか。たとえば一年留年すると労働力、納税額など社会的損失(バイトレベルでその人じゃないと絶対できないものはないが、大卒の後に就く専門的な仕事は代えがききづらい)。特に今は労働力不足。
奨学金。機会の平等。
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