「それなら女子学院がいいんじゃないの?」と私は友人に返した。
それというのも、彼が自由闊達な学校に娘(当時1才)を入学させたいと言ったからである。彼は公立一貫校に入れたいと思っているようだが、(少なくとも私が知る限りのレベルで)各学校の生徒会長が集まるような環境において、「誠実さ」や「堅実さ」はあっても、自由闊達というのは少し違うのではないと思い、そのように返答した(そして「堅実さ」を合格実績とみなすならば、桜蔭や豊島岡女子などより適切な環境はいくらでもある)。
とはいえ、あまり私立はお気に召さないようだったので、学芸大附属中や筑波大付属中、日比谷高校を勧める。それなら彼がいた地元エリート公立高の自由闊達な雰囲気と同じものとして説明しやすいと思ったからだ。案の定というかそれらの選択肢は彼にとって印象的だったようで、それらの特徴や可能性について少しばかり吟味している様子がうかがえた。
まあ今から10年以上先のことを考えてるんかいという話だが、学校云々だけでなくすでに今から物理やらの勉強(ちなみに彼は私と同じ国立文系志望だったので、一般的に言えば物理を受験に使っていない可能性が高い)をこれから始めるor始めたという話で、ガチな感じがリアルに伝わってきた。
私は両親や近場の親戚がかなりレッセフェールな方針だったので勉強を強いられるという経験がなく、また進路や高校・大学についても何か言われたことはないので~大へ行け的な話をする父方の祖父母については嫌悪感を抱いていたし(「その場所に行ったら~な可能性がある」といった選択肢・環境的意味合いの話をするならまだしも、~大学に行け的な発言をするのは浅ましい虚栄心の産物だと思っていたので)、ゆえにそれで成功するのも失敗するのも誰のせいでもない自己責任だと思っていた(これを踏まえると、私のような発想は一見子供に優しいものと映るかもしれないが、その実パターナリズムよりずっと厳しいスタンスだということが理解されるだろう)。
まあそういうわけで、本人の意思がはっきりしないどころか全くわからない状態で親がレールを引くのは愚の骨頂だと私は考えてきたのだが、今回の件を通じて将来をあれこれ思案する親のエートスを多少なりとも理解するきっかけになったと思う(教育格差の問題でも出てくるが、完全な放任こそ本人の意思を尊重しているというのは間違っていて、「環境を整える」こと自体の重要性は変わりない。これを度外視してたとえば「どんな環境でも成功する人はいる」と考えるのは、たとえて言うならペニシリンがなくても結核から生き延びた人はいる[からペニシリンを投与する必要はない]と主張するのと同様に奇妙である)。たとえばこれが「安定性」なら、人によっては将来変化する大学入試システムに乗り遅れることを危惧して早稲田実業や慶應女子といった有名大付属校に入れるのだろうし、あるいはさっき言ったような「堅実さ」であるならば、合格実績や学校での面倒見といったものに魅力を感じてまた違ったチョイスをするのだろう。
ともあれ、これまで「異物」であったそのような諸々のスタンスが、一人の賢明な友人の思考を通じて身近なものとして感じられたというのは貴重な経験であったと思う。
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