論理的に考えているつもりが実は感覚を正当化しているだけ、ということは少なからず起こり得る。では、理論化などせず感覚に正直になればそれで自由になれるのだろうか?そんなことはありえない…
<感覚と理論>
個人の嗜好で作品をとやかく言うべきではない。笑いは説明するものではない…本当にそうだろうか?要するに感覚と理論を別のものとして扱っているわけだが、私は大いに疑問を感じる。例えば、私は寿司が好きだが、これは個人的なものか?じゃあ平安の丸顔好きは個人の嗜好か?現代のスレンダーへの希求は個人の趣向か?このように考えてみると、「個人の趣向」と呼ばれるものもまた、時代・社会の影響を免れえない(ズラしが成立するには、基軸が存在しなくてはならない)。これに対して、両者をわけるべきだと主張する人がいるかもしれない。
では聞きたいのだが、いったい両者はどうやって区別しうるのか?あえて言えば、純粋な個人の趣向も純粋な社会的傾向(流行など)も存在しない。あるのはグラデーションである(後者にも選択が作用する)。そこで最初に戻るが、実に個人的趣向、すなわち感覚的領域と理論的領域を棲み分けようという、あるいは棲み分けうるかのような考え自体がナンセンスではないか。まるで感覚は自由意志のなせる領域であり、理論こそは社会的足枷である…そのような二元論こそ、実は不自由なのではないか?(褐色⇒日焼け、境界線のエロス、見えるものと見えないものetc...)
感覚と理論を別物だと規定し、あまつさえ「自由な」前者を社会的・一般的規定による牢獄から守るべきかのような考え方は、感覚が実は幾重もの縛りの中で成立していることを気付かせないという意味で、むしろ不自由と隷属を招くだけである。例外事項なんていくらでもあるよ。というか、例外のない感覚ってどれだけあるのかしらん。
同じという感覚にも危険が潜んでいるうえに、気付きにくい。もし相手の意見が自分と違うものだと考えた場合は、土台から考えざるをえないが、同じだと感じた場合には同一化傾向や承認願望によるバイアスがかかる。ここにおいて、同じだという感覚は、承認願望を満たすために生まれる。同じであると飛び付くな(「何が同じで何が違うのか」、共感の病理)。
<感覚と理論>
個人の嗜好で作品をとやかく言うべきではない。笑いは説明するものではない…本当にそうだろうか?要するに感覚と理論を別のものとして扱っているわけだが、私は大いに疑問を感じる。例えば、私は寿司が好きだが、これは個人的なものか?じゃあ平安の丸顔好きは個人の嗜好か?現代のスレンダーへの希求は個人の趣向か?このように考えてみると、「個人の趣向」と呼ばれるものもまた、時代・社会の影響を免れえない(ズラしが成立するには、基軸が存在しなくてはならない)。これに対して、両者をわけるべきだと主張する人がいるかもしれない。
では聞きたいのだが、いったい両者はどうやって区別しうるのか?あえて言えば、純粋な個人の趣向も純粋な社会的傾向(流行など)も存在しない。あるのはグラデーションである(後者にも選択が作用する)。そこで最初に戻るが、実に個人的趣向、すなわち感覚的領域と理論的領域を棲み分けようという、あるいは棲み分けうるかのような考え自体がナンセンスではないか。まるで感覚は自由意志のなせる領域であり、理論こそは社会的足枷である…そのような二元論こそ、実は不自由なのではないか?(褐色⇒日焼け、境界線のエロス、見えるものと見えないものetc...)
感覚と理論を別物だと規定し、あまつさえ「自由な」前者を社会的・一般的規定による牢獄から守るべきかのような考え方は、感覚が実は幾重もの縛りの中で成立していることを気付かせないという意味で、むしろ不自由と隷属を招くだけである。例外事項なんていくらでもあるよ。というか、例外のない感覚ってどれだけあるのかしらん。
同じという感覚にも危険が潜んでいるうえに、気付きにくい。もし相手の意見が自分と違うものだと考えた場合は、土台から考えざるをえないが、同じだと感じた場合には同一化傾向や承認願望によるバイアスがかかる。ここにおいて、同じだという感覚は、承認願望を満たすために生まれる。同じであると飛び付くな(「何が同じで何が違うのか」、共感の病理)。
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