「ピポロ」という響きを私が初めて耳にした時、まるでナメック語(笑)か何かのように思えた。要するに、それだけ私にとってalienなものと感じられたわけである。
これが漢字表記では「美幌」となり「びほろ」と読むわけだが、私は以前誤って「みほろ」と呼んでいた。つまり漢字の一般的な読みに従って地名を推論・発音していたわけである。この三つの「ズレ」のおもしろさからアイヌ語というものを調べてみた時、私は初めてそれには濁音が存在せず半濁音のみである(=「ばびぶべぼ」がなくて、「ぱぴぷぺぽ」がある)と知った。
これを認識した時、私は例えば「コロポックル」といった言葉の響きにどこか異世界の趣きを感じたことの必然性を理解するとともに、その「異世界感」、言い換えればアイヌ(語)という「他者性」が漢字というものによって隠蔽されていることに気づかされた。
似たような例で言うと、「ポプテピピック」9話を見て後半のウチナーグチを聞いた時、後者が日本語というよりはむしろハングルのように感じられた。このような体験を通じて、近代日本の境界というものが自明でも何でもないということを再認識したわけである(ちなみにその経験が、「はじめての沖縄」を読んですんなりその内容が入ってきた理由でもある)。
このようにして、いわゆる「想像の共同体」を、机上の空論としてではなく(発音したり知覚するなど身体性を伴う)実態あるものとして受け取る経験をするのは非常に興味深いと感じる(これは例えば、「ミルクムナリ」のような沖縄の音楽を聴いてインドというかアラビアの曲調を連想するというのもそうだ)。その理由は、マジョリティのマイノリティに対する「『普通』という名の暴力」と同じで、言葉では何となく理解していても、そして明確な悪意はなくても、「空気」のように身体に染みいた結果、意識せずそれを自明のものとして振る舞い、それがすでに抑圧を孕んだ行為であったことに気づかされる・・・という構造と同じだと思うからだ(ゆえに、ただ理解しているだけでは容易にその共犯者となることがある、とも言える)。
私はこれまで、個別バラバラに思えるものが、実は根底で繋がっているという(大げさに言えばw)アカシックレコードの記事を何度か書いてきた(ちなみにそれは12世紀ルネサンスの記事で書いた宗教と科学の近似性の話にも関わる)。それは由来や関係性を知るのがおもしろいという知的好奇心に結びつくだけでなく、世界を体系的に理解する扉を開くという意味で合理性もある。しかしそのような探求は同時に、冒頭に述べた「ピポロ」と「美幌=びほろ」のような形で、呼称というものがいかに政治性を帯びるのか、そして私たちがいかにその中に取り込まれているのか、という気づきにもつながるのである。
とあれこれ書いてみましたが、実はこの気づきって相当大変な話でもある。今私は漢字と政治性の話をしたが、たとえば外来語や外国の概念が大量に流入した明治期に漢語に遡って無理やり継ぎ接ぎされた例はいくらでもあるからだ。結果として、老荘思想に由来する「自然」、フランス語に由来する「世界」、religionを表す訳語として仏教から「宗教」の語を借用・・・といった具合にモザイクが形成された(※)。私達はカタカナであれば外来語であろうくらいには思っているが、実は漢字・漢語にしてからが外来かつ元の意味から大きく変容しているケースが多々あり、しかも私達は最早その由来を意識すらしなくなっている(がゆえに元々日本語に存在していたくらいに思っている)のである。
もちろん、ただ現地語・原語に忠実であることが正しいというのではなく、漢語化によって他者性が隠蔽された結果としてそれを忘却し、そのフォーマットと価値観に飼い慣らされ、知らず共犯者になっている、ということなのである。そんなことを「ピポロ」という言葉を通じて思った次第だ。
・・・と全て書き終わったところで、これ全部漢字にして似非漢文スタイルでいけばよかったわと後悔したが、今日は時間がねーからそんなことやってる暇ねーわ(・∀・)
とヨハンじーさんの言葉を中途半端に借りつつこの稿を終えることにしたい。
※
こういうことを調べていると、何かずっと続いている「伝統」のように思えることが、実は比較的最近に創造されたものに過ぎないこともわかってきたりして、いわゆる「保守」の胡散臭さも同時にわかるので大変便利である(ただの思い出騙りをしてるのか、知識と実態に基づいて論を構築しているのかが区別できる、ということ)。
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