undertaleと忠臣蔵:バイナリー思考、民衆感情

2019-01-29 11:26:16 | レビュー系

 

え?いつぞやの蜘蛛がまた出てきやがったぞい・・・何?商品買わなかったら私たちを嫌ってるんだろうからむしろお前を殺すって!??

「そんなへえ、理由でこの年端もいかないキャラ子を殺そうとするヤツかわいいなは殺されて当然だ」 

というバイナリー思考になったが、結局殺すことはしなかった(最初のボスへの罪悪感で十分だったので)。しかし、このキャラを見逃して「平和的」ねえ・・・だったらこれから俺たちは、「メンチ切った」とか言ってナイフで切りかかってきたヤツに無抵抗で説得を試みなきゃいけねーってわけだ( ̄▽ ̄;)このキャラはかわいいし萌えるが、そのことと原理・原則的にこの対応が納得いくかはまた別の問題だよな。

 

・・・と思いながらノーマルエンドもトゥルーエンドも見たので、よくできた話でゲーム性が高いと思いつつも、どこか腑に落ちないものが残っていた。しかしそれだけに、Gルートの不気味な展開(「異形」とは何なのか、「狂気」とは何なのかを文字通り考えさせられる)をプレイして、なるほどさすがにそういう要素も製作者は織り込み済みだよな、と最終的に納得し、この作品すなわちundertaleは私の中で殿堂入りすることになった。

 

さて、undertaleの特徴である可愛らしい曲と素晴らしいゲームシステム、そして何より微笑ましいながら他者への愛に溢れたこの作品を、そういう方向性で多くの人が称揚するのを間違っているとは思わない。しかしそれなら、一方でMERCYを求めぬ悲しみをたたえたあのラスボス(それは私が作中で最も好きなキャラだが)をどう評価するのか、私はそう思う。

 

もちろん、彼に対する批判的な意見が出るだろう。なぜ悲劇の連鎖を起こしてしまったのか、と。そのような視点を持つのはもちろんいい。しかしここが作品として実によくできているのだが、彼に最も批判的だった、すなわち不殺を誓ったあの人がundergroundの統治者になるエンドで、展開(だれが生存するか等)によっては追放されるというものがある。要するにそれは、(再び)同朋を殺した人間への復讐に燃えるundergroundの住人たちが、不殺を是とする新たな王を受け入れなかったということである(ちなみに他にも様々なバリエーションがあるが、その紹介・網羅が目的ではないので今回は省く)。

 

さてこのような「国民感情」の描写なども見る時、あのラスボスの所業を批判する人たちは、一体それをどう折り合いをつけるつもりなのだろうか(一応先に言っておくが、これに絶対的な解はない)?なるほど自らに不殺の枷をつけ、生きていくことはできる。しかし、多くの生ける者たちの喜びも哀しみも背負い、復讐を思いとどまるよう彼らを納得させるのはハードルの高さがまるで違っている。ナイーブな人間が陥りがちな「祈り」などでは何も解決しないし、ましてや「心の持ちよう」の問題などでもないのである(自らと異なる他者との共生を真剣に模索するというのはそういうことだ)。

 

undertaleという作品のテーマの一つが、「共生」であることは論を待たないだろう。しかしそれは、単に「他者への思いやりがあれば何とかなる」といった甘いものではなく、もっと深刻で生々しいものとしてきちんと描写されている。このこともまたundertaleという作品が高く評価できる理由であると同時に、プレイヤーがそれを十全に受け取るためには、単純な善悪に還元できない、すなわちambiguousな描写・評価に向き合おうとする構えが必要不可欠であると思うのである。

 

ちなみにambiguousもしくはバイナリーな思考については、「嘲笑の淵源」「indifference to enlightment」などでも触れている。前者では、「極限状況だと条件付けが変わるため、人間理性がたやすく溶解する」ことを理解しない人間を愚かだと思いながら、同時にそれら身近な人間を友人と考え感謝もするし信頼もすることを書いた。そして後者では、身近な存在を愛おしく思うと同時に、「人間存在一般と同じで生きる意味はない」と考えると書いている。ちなみに、人間にはそもそも「認知的不協和」というものがあるので、無意識でもそれっぽい方向に整合性を持たせようとしてしまう生き物であることに注意を喚起したい。

 

 

さて、これまで述べたことは、ひとりゲームにしか関係のないことだと思われるかもしれない。しかしたとえば、以下のような忠臣蔵の語られ方を聞けば、様々なものに適応できるエートスだと理解されるのではないか。

 

 

ここでの話題は「いかに視聴者に忠臣蔵を美談として納得させるか」というレトリックであったりするので、先ほどundertaleで取り上げたような「単純化できない現実」・「思い通りにならない他者との共生」という要素とは懸隔があると感じられるかもしれない。

 

しかし、以上を踏まえて「忠臣蔵」というものを討ち入りした者たちにとってのプロパガンダ作品だとみなせば、「複雑な現実をいかに都合のよいものに作り替え」、それによって「他者をいかにコントロールするかの話」であると理解できるはずだ(ちなみに、動画内で言及されている1985年の「忠臣蔵」こそ、私が就学前に見た初めての忠臣蔵である)。とすればそう認識することは、とりもなおさず複雑なる現実を理解し、他者を理解(≠コントロール)することとも非常に近いと考えることができるのではないか。

 

以上、複雑性や重層性、すなわち二項対立へ安直に還元しない態度の重要性を強調しつつ、この稿を終えたい。


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