ドイツ旅行 三日目:テュービンゲンを発つ

2020-09-18 11:38:03 | ドイツ旅行

駅に向かう途中で威風のある壁に感心しながら歩いていると、落書きを発見した。

 

なになに・・・femininismus ohne paternalismen?つかfeminismusのスペル間違ってねwまあ要するに「パターナリズムがなければフェミニズムはありえない」てことか。どんな意図で書いているのかはわからんが、まあ「男が弱い立場にある女性に配慮しているからこそ、フェミニズムなんてものが成立しうるのだ」てことかな。

 

駅に急いでいる身でその妥当性をあれこれ論ずるつもりはないが、昨日のネッカー川沿いで見たナショナリズムの残滓とともに、ここが保守的と言われる南部ドイツであることは思い出したぜよ(例えば、ナチ党はミュンヘンなどの南部ドイツを中心に支持され[cf.ミュンヘン一揆]、逆に自由主義や共産主義の強い北部ドイツでは党勢がなかなか広がらなかった)。

 

んー、しかしこれ、社会の多様性や複雑性が増し、その流動性も高まる状況の中で問題(?)になってることではあるよな。まあパターナリズムって言うより、近代の平等観念や普遍主義を徹底するとどうなるか、という擬制ないしイデオロギーの問題だと思うけどね(なぜイデオロギーかと言うと、「人間が平等である」ということは、人権と同様に科学的根拠はなく、単に社会の中で共生のために取り決められたルールに過ぎないからである)。

 

まあ例えばだけど、「男女で平等にせな!」というのであれば、「男の方が奢る」みたいなのはおかしな話だよな(それじゃあ結局「女性=弱い」っていう前提を利用してるんじゃね?と問われてどう反論するのかしらん?それとも結局自分の利益が最大化できれば何でもいいのかな?)。俺の予想としては、そういうダブルスタンダードをやっている間に、男の多くは交渉もしなくていい上に手短に欲望を満たせる存在(=セクサドールなど)に接近していくだろうし(その方が相手に合わせなくてよいので時間の浪費も少なくて済むしリスクもないので「合理的」だ)、女の多くは自分がある程度稼げるの状況ならば、わざわざ交渉力のない男に「支配」される必要もなくなってくるのではないか(て話が「溺れる者たちは、藁よりいいものを掴もうとしてそのまま溺れましたとさ」って記事だ)。孤独を満たしたいのなら女性用のセクサドールなどを使えばいいわけで、子どもが欲しいなら優秀な人間の精子をもらって人工授精した方が確実である(ただしこの場合はある程度の生活保障がなされるシステムがないと、経済的に息詰まるリスクが出てくるが。また育児という行為は相当大変だし虐待をしてしまうリスクもあるため、VR育児でいいやという人が出てきたりするかもしれない)。

 

結婚せずに生きることのリスクとしては「孤独死」の話がしばしば出てくるが、逆に言えばその程度のことしか取り上げられない以上は、「問題が技術的なことに過ぎない」と暴露しているようなものだ。であれば人間がノイズ交じりの他者との交渉をやめて擬似人間(?)を代用に使うようになって、さらにはそちらの方を人間より大事に思うようになる事態が惹起すれば(すでにこれはペットなどで生じている現象)、「孤独とは生身の人間と触れ合わないことではなく、擬似人間との関係が断たれてしまうことだ」などと感じるような人間が増えていくことに何の不思議があろうか(ちなみに、このような姿勢どこまで認めるかという態度・規則も原理的には決め難く、それがまた社会的分断を深めていくのではないかと私は推測している。まあ日本が中国みたいな監視社会化するわけでもなく、欧米みたいに契約社会となることもできないのだとしたら、実態としては多様化が進んでいるのに、風潮としては「自粛警察」がごとき無意味な抑圧がはびこるというグロテスクな人治主義ではないかと私は考えている)。

 

まあ「生身の人間と関係を結ぶしかありえないっしょ!」という社会的抑圧があると同時に、共生できる範囲内で自己の欲望を自由に追求できることを発想とする社会では、生身の人間と関係(性)を持てないという事態が深刻な挫折とルサンチマンに繋がる危険があり、そこも多様化して包摂を行わないと、「インセル」的なるものが今後ますます増殖するだけではないだろうか。

 

認知科学などで人間の動物性が、そして遺伝学犯罪心理学などで人間の不平等性が、科学的に暴かれて行っている今日(なお、こういった人間の非合理性を元にして生み出されたのが行動経済学)、人間を理性的存在とみなすことで成立した近代市民社会の前提は成り立たなくなっている(まあ近代市民社会の理念は科学的根拠に基づいた法則でも何でもないので、当たり前っちゃ当たり前の話なのだが)。これが、社会の分断=人間への期待値低下であったり、(近代のトリアーデをなしていた)資本主義と国民国家が競合関係になってきていることなどに伴い、ポストモダン(後期近代)の世界はますます混迷を深めていくのではないだろうか(まあその流れを意図的に速めて近代を「超越」するみたいな発想が、加速主義だったりするわけだが)。

 

・・・てなことをナチスの断種法なども交えつつ考えていたら、ネッカー川に差し掛かった。

 

 

 

朝もやのネッカー川沿いがこちら。少し肌寒い空気にこの景色はとても印象に残るね(何か尾瀬を思い出したわい)。

 

 

うーし駅に着いたぜ。割とギリギリやけど時間にも間に合ったし、悠然と乗り込むとしますかね。


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